日々記 観劇別館

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『アルカディア』感想(2016.4.17マチネ)

キャスト:
バーナード・ナイチンゲール堤真一 ハンナ・ジャーヴィス寺島しのぶ セプティマス・ホッジ=井上芳雄 ヴァレンタイン・カヴァリー=浦井健治 レディ・クルーム=神野三鈴 トマシナ・カヴァリー=趣里 ガス・カヴァリー/オーガスタス・カヴァリー=安西慎太郎 クロエ・カヴァリー=初音映莉子 エズラ・チェイター=山中崇 ブライス大佐=迫田孝也 リチャード・ノークス=塚本幸男 ジェラビー=春海四方

シアターコクーンで上演中の『アルカディア』を観てまいりました。
英国の貴族の荘園「シドリー・パーク」を舞台に、19世紀初頭に館で起きた出来事の真相を、現代の文学研究者や貴族の子孫達が解き明かそうとする物語、と書くと一見ミステリのようですが、実際にはミステリはこのドラマを構成する一要素でしかありません。
英国製のストプレ、しかも登場人物は貴族社会に生きる人々と、詩人バイロンなどの研究の世界にどっぷり浸かった人々ということで、台詞のそこかしこにコテコテの英国文化臭が漂っていました。白状しますと、そうした専門的かつ高尚な台詞の応酬に途中で頭がこんがらがり寝ていた時もありました。
現代の人々は、文献調査に資料研究、そして議論を積み重ねて過去の真相を追究しようと試みます。ただし、実のところ真相は文献や登場人物の発言に現れない部分に隠されているというオチですので、例えばバイロンを知っていても知らなくても作品を楽しむことは可能です。

物語は、とにかく切なくて辛いものでした。途中には笑いどころもこまめに挿入されていましたが、終盤で現代の人々の口から断片的に語られた、19世紀の人物達が迎えた悲しい顛末と、19世紀のメインの2人が最後に取った行動から、観客に(全てではないにせよ)愛の真実とその後の2人の運命とが示唆され、実に痛々しい思いがもたらされます。更にそこに、現代の登場人物のうち2人の言葉にされなかった愛の真実が明らかにされ、ピアノによるワルツの調べとともに切ない愛の二重奏が奏でられて物語は幕を閉じます。

この物語においては、
「過去の出来事には、いくら貴重な文献を入手して調査研究を極めても、その限りからは決して見ることのできない真実がある」
ことが語られています。私は本職で図書館に関わる仕事をしているのですが、この展開は図書館人としては少し寂しいものがあります。
登場人物達の台詞にもあるように、起きた事象を逆回ししても過去に発生した熱量は元に戻せない、言い換えればその時に発せられた熱量はその瞬間にしか体感できないので、過去の出来事の瞬間の真実はその時その場にいた人間しか知り得ない、ということであるとは思いますが、図書館の重要な仕事の1つとして「過去に起きた事象を記録したものを未来に残し伝える」というものがあります。文献で伝えられない真実もある、というのは分かっていても深い諦観を覚えずにはいられません。

ちなみに自分は文学的知見があまりないので、逆回し云々の場面では朝ドラ『あまちゃん』で数々の試練の末に震災で心に傷を負ったユイちゃんの「アキちゃん、逆回転させてよ!」をひたすら連想していました。もちろん普通の人間であるアキちゃんは運命を逆回転することはできない代わりに、未来へと向けてユイちゃんほか故郷の仲間達を牽引する役割を担うことになったわけですが。
人間は常に未来に向かってしか生きられない生き物で、それ故にラストでワルツを踊ったうち19世紀の人物の1人は、恐らくは自らの手により幸福の絶頂で時を止める道を選び、もう1人は自らの心を閉じ込めて隠遁者としての余生を辿ります。一方の現代の2人がどのような宿命を辿るかは、ただ想像するしかありませんが、少なくとも彼らには時を止める理由は存在しないと思います。

図書館人としては寂しい展開、と書きましたが、一方で楽しい要素もありました。
堤さんと寺島さん演じる現代の研究者バーナードと作家ハンナとが、19世紀に家庭教師セプティマスに決闘を申し込んだ「詩人」チェイターの来歴を探るやり取りをする1幕の場面で、
大英図書館の著者目録に植物学者のチェイターなら載っていたが、詩人のチェイターは載っていなかった」
と語る場面があり、おお、こんな所に大英図書館が!ちゃんと図書館での文献調査にも触れられている!とひっそり喜んでいました。
しかもこの件、2幕でチェイターの後半生の真相に繋がる伏線として、しっかり回収されていました。良かった、ちゃんと図書館が役に立ってくれたよ、と嬉しい限りです。

キャストについても少しだけ語っておきます。
井上くんのセプティマスは、正にはまり役だと思いました。高い知性と気品を持って肉欲と精神的な愛を完全に切り離し、超然としつつもどこかで単純に割り切れない感情を抱える青年。何でこういう役どころがこんなに似合うのでしょう。滑舌も明晰に、お嬢様の憧れの王子様を適確に好演していました。
そのお嬢様、トマシナを演じた趣里さんは、もう少し気品があっても良かったように思いますが、貴族の子女らしからぬ知的閃きとエキセントリックさに溢れた性格という設定なので、あれはあれで良いのかも知れません。10代の少女特有の無邪気さと頑なさとが終盤の展開に繋がって、何とも悲しいのです。
トマシナの魂は現代のカヴァリー家の三兄弟にそれぞれ何らかの形で受け継がれているわけですが、妹と弟に比べると、浦井くんのヴァレンタインは何だか報われていない感が強いです。高い知性、そして「亀」という、セプティマスと共通する2つの要素を持っている以上、それもまた運命なのでしょうか。
これはあくまで個人の印象ですが、演出の栗山さんが使い方の勘どころを握っているのは井上くんであって、浦井くんは微妙に勘どころから外れているように感じられます。浦井くんは確かに怜悧で無邪気で偏屈で不器用な変人を演じることに長けていますが、今回はもうひと匙、もうひと声、な印象を受けました。
どちらかと言えば安西さんの演じたガス(現代人)とオーガスタス(19世紀人)の方が従来の浦井くんのイメージには近いと思いましたが、様々な役への挑戦は役者としてのキャリアアップには必要な経験ですし……難しいですね。
堤さんのバーナードは研究の功を焦るあまり詰めの甘いまま暴走してしまう上、お嬢様にも手を付けてしまうとんでもない奴なのですが、どこか憎めない所に彼の巧さを感じました。バーナードの顛末はどこかSTAP細胞事件を連想させるものでしたが、この作品が書かれたのは1993年なので全く関係ありません。もっとも一旦認められた学術論文の取り消しは昔から時々あったことなので、この物語のバーナードの運命もまた「良くあること」の1つに過ぎないのかも知れません。
寺島さんのハンナもまた、はまり役であったと思います。ひたすらバーナードとクールに舌戦を繰り広げる姿や、ヴァレンタインの求愛に困惑する表情を見せ続けた後での、終盤の「ワルツ」での無邪気な笑顔の美しさは忘れられません。
ほかの皆様もそれぞれに素敵でしたが、今回は大好きな神野さんが観られたのは嬉しかったです。英国貴族の気品やプライドから、セプティマスに見せたよろめきに至るまで、観ていてぞくぞくとさせられました。

いつも観る舞台はミュージカルが多いですが、やはりたまにはこうしてストプレも観て違う刺激を受け、観る眼を肥やすのも大事ですね。

次の観劇は来週の『エドウィン・ドルードの謎』。その後はしばらくお休みをいただく予定です。