日々記 観劇別館

観劇(主にミュージカル)の感想ブログです。はてなダイアリーから移行しました。

『國語元年』感想(2015.9.12マチネ)

キャスト:
南郷清之輔=八嶋智人 南郷光=朝海ひかる 南郷重左衛門=久保酎吉 秋山加津=那須佐代子 高橋たね=田根楽子 御田ちよ=竹内都子 江本太吉=後藤浩明 築館弥平=佐藤誓 広沢修二郎=土屋裕一 大竹ふみ=森川由樹 裏辻芝亭公民=たかお鷹 若林虎三郎=山本龍二

新宿の紀伊國屋サザンシアターに、こまつ座主催の本公演を観に行ってまいりました。
初演では、清之輔を佐藤B作さんが演じていらしたそうで、それもちょっと観てみたかったかな、と思いつつ。

上司に「全国統一話し言葉」の制定を命じられた長州出身の文部省官吏、南郷清之輔。何とか任務を果たそうとする彼の奮闘ぶりを縦糸に、家族から奉公人、書生、居候まで、お国言葉のデパートのような南郷家を舞台にした言葉の違いから生じる騒動と、邸の住人達の人情とを横糸に繰り広げられるのが、この『國語元年』という物語です。

任務に励むほどに、その任務が途方もない大事業だと気づいて、壁にぶち当たるたびに激しく七転八倒する、情の篤さと熱さとを兼ね備えた清之輔を、八嶋智人さんが好演していました。
そして、元々舅、妻のほか、奉公人その他で9人の大所帯だった南郷家に、更に騙されたお女郎のちよ、国学者としてアドバイザーを決め込むお公家さんの公民、薩長の邸専門の押し込み強盗として生きる会津士族の虎三郎が次々に押しかけてきます。彼らが皆、激しく自己主張しながらも、何とか清之輔さんの役に立ちたいと、それぞれのやり方で心を寄せて身を尽くすさまが、本当に温かくて……。ただ、良かれと思ってしたことが結果として仇になってしまうことの方が多いわけですが。そんな風に途中の展開が温かければ温かいほどに、ラストの悲劇が何ともずっしりと観る者の心にのしかかってくるのです。

井上戯曲では女性の登場人物の強さが光っていることが多いのですが、この作品も例外ではありません。光さん(朝海さん)のおっとり不器用ながら一途な可愛さ。加津どん(那須さん)の凛とした立ち居振る舞いと言葉遣い。ちよさん(竹内さん)の河内弁で啖呵を切る、健気で純粋な雑草魂。おたねばあさん(田根さん)の苦労を重ねてきた重み。ふみさん(森川さん)に漂う何とも言えない安心感。女性陣の個性が上手く音楽を奏でていたと思います。

男性陣は、それぞれに「思う所」を抱えていて、折々にそれらが小出しにされることで、時に物語が回り、時に物語を香辛料のように引き締めていたと思います。
特に奥深いのは虎三郎です。押し込み強盗の場面では完全にコメディリリーフなのですが、一方で彼が残した手紙の文面からは、会津士族として一通りの教養を備えた人物であることが読み取れます。ラスト近くで、
話し言葉の統一なんて到底無理で、1人1人が言葉の質を高めることが最も大事なのだと思う」
という趣旨の重要なメッセージを清之輔に伝えるのも、彼の役割です。
虎三郎を演じた山本さんは東京のご出身だそうですが、かなり会津弁を頑張っていたと思います。私の乏しい経験上、会津弁はネイティブで話すと本当に聴き取れないのですが、それを舞台の台詞として微妙に聴き取れるようにする工夫も含めて、かなり大変だったのではないかとお察しします。

この作品、人間のエゴも、人情の温かさも、権力の理不尽さや皮肉も、下層で虐げられし者達への愛おしみも全て兼ね備えていて、それでいて腹の底から大笑いできる、上質のシチュエーションコメディでもある傑作だと思いますが、唯一、結末が、主人公から脇役まで誰一人として救いが無く、身も蓋も無く悲劇なのは辛いです。
一緒に観劇した友人が、
「この結末が、人間の言葉を思い通りにしようとしたことへの天罰だとしても、命じた権力者は罰せられず、命ぜられた者だけが罰せられるのは納得が行かない」
と言っていましたが、まるまる同意します。
ただ、どうもこの作品が書かれた時期は、井上さんの最初の奥様とのご家庭が最大限に修羅場を迎えていた時期でもあったようです。作家のパーソナリティと作品とを安易に結びつけるのは好きではありませんが、この作品に関しては、作家の心のうちに激しく荒れ狂っていたであろう修羅の存在と切り離して考えるのは難しいように思います。

なお、井上芝居の例に倣って、この作品も、節目節目に登場人物が小学唱歌を歌い踊る場面が散りばめられた、美しい「音楽劇」となっています。聴き慣れたメロディーに聴いたことのない歌詞(清之輔が作った小学唱歌集の歌詞という設定)が割り当てられているミスマッチ感が何とも不思議でした。