日々記 観劇別館

観劇(主にミュージカル)の感想ブログです。はてなダイアリーから移行しました。

『イーハトーボの劇列車』感想(2013.11.9マチネ)

キャスト:
宮沢賢治井上芳雄、宮沢政次郎(父)、伊藤儀一郎=辻萬長 宮沢イチ(母)、稲垣未亡人=木野花 宮沢とし子(妹)、女車掌ネリ=大和田美帆 福地第一郎(三菱社員)=石橋徹郎 福地ケイ子(第一郎の妹)=松永玲子 西根山の山男=小椋毅 なめとこ山の熊打ち淵沢三十郎=土屋良太 人買いの神野仁吉(曲馬団団長)=田村勝彦 人買いに売られた娘=鹿野真央 風の又三郎らしき少年=大久保祥太郎 背の高い、赤い帽子の車掌=みのすけ

紀伊國屋サザンシアターで上演中の本作品。千穐楽まであと8日という時期に、ようやく観てまいりました。
いきなりですが、ここ数ヶ月の間にいくつかストプレを観ていて実感するのは、「自分はやはりストプレよりミュージカルを観る方が得意だ」ということです。
もちろんストプレも面白いとは思うのですが、何と申しますか、「ストプレの勘どころ」「ストプレの鑑賞ポイント」のようなものが今一つつかみ切れていない所があります。
そんなわけで、隔靴掻痒な感想になっているかも知れませんが、一応、綴ってみます。

終演後の第一印象は、
「このお芝居、こんなに多種類の要素が詰め込まれていたっけ?」
というものでした。何しろ原作を読んでからゆうに20年以上は経っているので、一部のインパクトが強烈だった場面を除くと、細かい展開を綺麗に忘れていまして。

物語の主テーマは、宮沢賢治という、裕福な家庭に生まれながらも貧民から金銭を取り立てる家業への反発から、衆生の救済を目指した仏教に傾倒し、更に農民に幸福をもたらす道を探り続けた1人の青年の闘いと挫折の軌跡です。
しかし、そこに妹との許されない愛、父親との確執、東北の農民の受ける試練、更に脚本家の思想に起因する国の体制への皮肉等、実に様々な要素が多重奏になっていて、消化するにはちょっと大変だと感じました。

この演目の賢治については、家出して上京し宗教活動に傾倒するも挫折し、更に農民の苦しみを痛いほどに汲み取っていながら、自身の育ちと教養と宗教観とが邪魔をして、「僕が考えた理想の農民像」を現実の農民に当てはめ啓蒙しようと試みて空回りして、再び挫折していく姿が本当に哀れでなりませんでした。
挫折して再び希望の灯をともしたのに、その灯を支える論拠の脆弱性を論破されてまた挫折し……ということを繰り返す人生を目の当たりにするのは、お芝居と分かっていても胸を締め付けられ苦しいものがあります。
賢治の作品に登場する人物やその縁者が、作品に込められた人間に対する優しさと辛辣さと憐れみとの同居する視点を象徴するように数々の試練を受け、次第に追い込まれていくさまも、観ていてかなり辛さを覚えました。

もっとも、1幕と2幕で辻さんと井上くんのコンビにより演じられる、長い会話の掛け合いの結果、賢治が論破され打ちのめされる2つの場面では、ついくすりと笑ってしまったわけですが……。もし、あれらのハードで重い会話の応酬に笑いのエッセンスがなかったら、もっと辛かったと思います。

作品における宗教観は、仏教に傾倒する賢治を描きつつ、必ずしも仏教的でない所もあるように感じました。
これは終盤のネタバレになってしまいますが、賢治をあえて死に導こうとする、彼の作品の登場キャラクターやその縁者である3名の人物が、涅槃の仏陀を取り囲む弟子達に見える一方で、イエス・キリストを裏切るユダの影も見たような気がしました。ユダは裏切り者ですが、他方でイエスを人の世から神の元へ還すきっかけを作った人物でもあります*1
そもそも、同じ仏教でも、この物語で描写されているとおり、浄土真宗日蓮宗等、異なる宗派が存在する等、一枚岩ではないわけで(キリスト教も同様)。そして、複数の宗教イメージがクロスオーバーすることは、日本人としてはさほど違和感なく観ることができましたが、この辺り、海外の方はどういう見方をしているのか気になるところでした。

最後に役者さんの感想を少しだけ。
登場人物の半分以上は岩手人ということで、とことん岩手の言葉で台詞が構成されていました。
井上くん、意外なほどに台詞を噛むこともなく、器用に岩手弁をこなしていましたが、台詞として岩手弁が若干浮き上がっている感じがしたのは否めません。
とは言え、生真面目だけど新しもの好きの変わり者の坊っちゃんで、それでいてどこか飄々とした所もある賢治の複雑さ加減は上手く表現していたと思います。
大和田美帆さんのとし子は、出番はそう多くはないものの、安定感抜群でした。とし子は悲劇の女性のイメージもありますが、お兄ちゃんに負けず劣らず変人な一面もある、強さと明るさを兼ね備えたお嬢様で、彼女を失わなければもしかしたら賢治ももう少し生きながらえていたのかも知れない、と思わせられるものが彼女のとし子にはありました。

あと印象に残ったのは、やはり福地第一郎を演じた石橋さんでしょうか。
あまり気づきにくいポイントですが、身長180cmの井上くんを超える身長ということは……多分山口さんなみにデカいです(^_^;)。
妹とのただならぬ関係、仏教への傾倒等、あらゆる面で賢治のネガ的、合わせ鏡的存在の第一郎を、実にアグレッシブに演じられていました。
賢治と異なり金の力を信じ切っていて鼻持ちならないけれど、どこか憎めない純粋な人物で、もし賢治が病にならず、余命が限られてさえいなければ、根付いて活動しようと決意した故郷を離れて、第一郎のように、外地へユートピアを求めて旅立つこともあったのだろうか?と自然に思わせてくれる人物像でした。
ただ、赤い帽子の車掌の言葉通りなら、第一郎もそう遠くない時期に命を失う結果になるわけで。そういう意味ではアグレッシブでありながら哀しみを湛えた存在でもあります。

それから、大久保祥太郎くん。祥太郎くんと言えば、ガブローシュ。そして、M.A.のルイ・シャルル。あの子がこんなに大きくなって、しかももう高校生だなんて!と近所のおばちゃんのように感慨深く成長した姿を見守ってしまいました。
2幕で井上くんと向かい合って立つ少年の姿を見て、もう少し大人になったらルドルフもあり?と軽く妄想したりして。
役柄は東北の貧しさの一面を象徴する健気過ぎる少年で、同じ立場のおじさん達とまた異なる色合いで賢治先生を慕っているので、祥太郎くんの華奢な体躯も相まって、一層憐れむ思いをかき立てられました。

そして何と言っても辻萬長さん。
1幕では地元の名士である賢治の父、2幕では伊藤刑事という、対照的な役柄ですが、いずれも賢治の痛いところを突いて論破するという、重要な役割を演じています。
実は最初に原作を読んだ時、初演キャストのイメージからか佐藤慶さんを当てはめてしまっていました(同じく賢治は矢崎滋さん)。しかし、実際の舞台で観ると、辻さん以外の役者で想像できなくなってしまったのは不思議です。
身勝手で上から目線で老獪なタヌキでありつつ、息子への愛情の濃さが強烈な父親政次郎。そして恐らくは貧民の出身でやはり老獪でありながら、賢治の父親の思いを深く酌み取った上で、父親目線で賢治を連れ戻そうとする伊藤。彼らの「愛情ゆえの論破」は、親類一同が集まったお酒の席で年長のおじさんが若い者に説教を喰らわしているような、そんな空気を漂わせていたと思います。

……この物語のプロローグとエピローグに登場する死者達を乗せた列車が向かう場所の正体は、最後まで観客には明かされません。そこは死者達が口にするように、ただの「暗く湿った場所」なのか?そしてその行き先から死者達が「ひかりの素足」を持つ者に救われ、彼らが本来行くべき場所へ導かれることはあるのか?
ただ、賢治の妹と同じ役者が演じる「女車掌ネリ」が案内する列車である以上は、きっと悪い所へは行かない筈、と頼るしか術がありません。赤い帽子の車掌が思いを込めて撒いた「思い残し切符」の紙吹雪は、現世で苦しみ抜いた死者達の旅立ちを祝福するものであると信じたいです。

*1:ちなみに作者の井上ひさしさんはクリスチャン(カトリック)です。