日々記 観劇別館

観劇(主にミュージカル)の感想ブログです。はてなダイアリーから移行しました。

『傾く首 〜モディリアーニの折れた絵筆〜』感想(2008.11.1ソワレ)

アメディオモディリアーニ(モディ)=吉野圭吾 ジャンヌ・エビュテルヌ(ジャンヌ)=内田亜希子 ハイム・スーチン(ハイム)=溝呂木賢 モーリス・ユトリロ(モモ)=岩田翼 ルニア・チェホフスカ(カカシュカ)=小野妃香里 レオポルド・ズボロウスキー(ズボ)=戸井勝海

こちら、一応観劇ブログの筈なのに、最近は専ら篤姫&山口さんブログと化してました。2ヶ月ぶりにちゃんと観劇のことを書きます。
赤坂RED/THEATERで吉野圭吾さん主演の『傾く首』を観てきました。RED/THEATERは初めて行きましたが、200人足らずしか入らない小さな劇場でした。入る前、オペラグラスを忘れたので動揺してましたが、全く心配の必要はなく、吉野さんがとても近くに見えました。これが山口さんの舞台だったら、クリエで最初に『レベッカ』を観た時のように呼吸に異常を来していたに違いありません。

さて、『傾く首』の物語はモディとジャンヌの愛がもちろんメインではありましたが、カカシュカ→モディとか、モディ→ハイム、ハイム→ジャンヌ、モモ→酒(笑)など様々なタイプの愛(しかも屈折しまくっている)が次々に展開されるので、頭を巡らせるのがかなり大変でした。
モディとジャンヌは一見互いに深い愛を手向けあっているようですが、どちらも最後は自分が一番なことが前提の愛なので見ていてかなりもどかしかったです。ラストの和解とモディの幸せだという言葉はあれはハッピーエンドとしてとらえて良いのかかなり疑問です。取りあえずジャンヌのお腹の子に対する「(モディが死んだら)私も追いかけていく。間に合わなかったらごめんね」発言はぶっ飛ばしてやりたくなりました。
ジャンヌについてはこの子に通り一遍の説教は無駄だな、と思いました。ただ、モディみたいになかなか手の中に収まってくれないダンナをあの若さで持ってしまったらああなっても致し方ないとも思えます。
カカシュカは報われない無償の愛を捧げてましたが、しっかりジャンヌに嫉妬をぶつけもしていたし、苦しんではいても一応全部承知の上で取っている行動なので、あまり可哀想とは思いませんでした。小野さんは初見でしたが、すらりとしてモディとのダンスシーンが実に美しかったです。
登場人物の中で比較的共感できたのはハイム。相手への思いが深まる程に言葉で傷つけてしまう、お前はどこの不良少年だよ、な性格なんですが、実は発想的にはかなり健全な人。モディが彼のどこに惹かれて「俺の神様」と思い込んだのか、脚本からは上手く読み取れないのですが、彼の出した結論はモディから見れば、何で俺より才能があるのにそんな俗人の幸せを求めるんだ?って感じなのかも知れません。でも、普通の一生を送りたいならやっぱりモディとは心中できないよね、と、俗人としては思いました。
普段無口キャラな彼が酒の力を借りて、酔いつぶれたモディとモモを放置してジャンヌの部屋に押しかけ、じっとりねっとりと思いを告げる場面が印象的でした。上手く表現できませんが誘惑って言うのとはまた違う。もっと相手の内面と対話する感じ。溝呂木くんの目力がかなり怖くて引き込まれました。この場面の後ろで同時進行でカカシュカがモディに思いを告げてダンスなんかしているんで、どっちを観たら良いか分からず大変でしたが(^_^;)。
ズボはよく分からなかったです。あの6人の中で一番大人なのでしょうけど、モディに初めから巻き込まれていない分クールに対応できただけにも見えました。最後にモディではなくモモを助ける道を選んだのは彼の甘えっこだけど素直な人柄ならまだ救い出せると思ったんでしょうか。
モモについては、ユトリロという画家の絵が昔から割と好きなこともあって、好意的に見られました。史実の彼は後にアルコール依存症を克服、更生して大家ともてはやされモディの倍以上の年齢まで生を全うすることになるのですが、美術史に名を残しているのは更生前の作品だったりします。ズボがモディについて「酒がないと絵が描けない」と評する台詞もありましたが、モモの画家としてのピークも酒とともにあったと考えると、実は芸術家としての寿命は夭逝したモディとあまり変わらなかったのかも、と複雑な気持ちになりました。
……はい、結局この物語におけるモディの真実は、きちんと消化できておりません(^_^;)。でもまあ、彼が最後に口にした「幸せ」という言葉を信じるなら、彼自身はそうだったんだろうな、と考えざるを得ないでしょう。そしてジャンヌもきっと。犠牲があまりに大きすぎるんで、どうしても許し難いけれど。