日々記 観劇別館

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ウィーン版『エリザベート』感想(2007/4/30(千穐楽))

エリザベート=マヤ・ハクフォート ルイジ・ルキーニ=ブルーノ・グラッシーニ トート=マテ・カマラス 皇帝フランツ・ヨーゼフ=マルクス・ポール 皇太后ゾフィ=クリスタ・ヴェットシュタイン 皇太子ルドルフ=ルカス・ペルマン バイエルン公爵マックス=デニス・コゼルー ルドヴィカ公爵夫人=キャロリーネ・ゾンマー 皇太子ルドルフ(子役)=ダニエル・エクホフ

ウィーンキャストの『エリザベート』を大阪梅田まで出向いてついに観ることができました。
以下、生で観た『エリザベート』は東宝ミュージカル版だけ(しかも山口トートのみ)、ウィーン版はDVDと初演版CDのみ、宝塚版は雪組初演版DVDでしか見聞きしたことのない人間の感想なので、かなりバイヤスがかかっている可能性があります。あらかじめご了承ください。

まず、ウィーン版ルキーニ歌上手っ!と思いました。また、演じている役者さんの年齢もあってかとても動きが若々しかったです。これはトートにも言えることで、思い切り斜めになっている跳ね橋の上等でも実にきびきびと跳んだり跳ねたりしていました。

マヤさんのシシィはかなりたくましいイメージでしたが、お転婆で甘えっ子な少女時代の姿に全然違和感がないのが凄いです。でもDVDを観た時も思ったのですが、あんなに高い飾り木*1(参照URL:*2)から落ちたらトートにも助けられないと思います、普通。鍛えているマヤシシィだから助かったんではないでしょうか?とかそんなことを言ってみたりして(^_^;)。
マヤシシィは大変に不屈な魂の持ち主であることが一つ一つの歌からも演技からも伝わってきて良かったです。彼女は味方の居ない宮廷で常に窒息し続けていて、心の奥底では死への憧れを抱き続けているのだけど、その彼女の理想の死=トートというのがこれまた彼女の映し鏡のように不屈で大胆でエネルギッシュな存在なので、ああ、この女性にとって死と生とは普通の人間以上に表裏一体で切り離せないものだったんだろうな、と思わせてくれました。これは日本版では抱かなかった感想です。

ウィーン版フランツは、日本版(と言うより小池版)の彼よりも遥かにシシィの役に立たない存在でした。というより、特に若い頃のウィーン版フランツは、宮廷生活とか母上が実権を握っているとかの環境を余りにも普通のこととして受け入れているため、言葉ではシシィに「皇帝に自由など無いのだ」と言ってみても実際にそれがシシィにとってどんなに苦しいことかを心底からは理解してないだろうお前、っていう感じがぷんぷん漂っておりました。いえ、理解して哀れんではいるのかも知れないけれど、その感情すら封じ込めることがごく自然の行動であり、表に出す術を知らないのでしょう、恐らく。
2幕ではフランツ、年齢を重ねてだいぶその辺の機微が分かるようになってはきていますが、基本的な性向は変わらないので『夜のボート』での夫婦の解り合え無さ加減があんなにも切ないことになってしまうのでした。

ゾフィについては、強い意志と聡明さ、そしてシシィ以上の不屈の精神の持ち主である、実に素敵な女性だという印象を受けました。彼女の場合は不屈さの発揮される先が「ハプスブルクを守る壁を築き上げること」であったのに対し、シシィの場合は「壁をぶち破ること」であったのが不幸な戦いの始まりだったのだと思います。
ゾフィの関係で日本版と比べて驚いたのは、登場場面の最後となる「ベラリア」で、直接のゾフィの死の描写がなされていなかったことです。あの場面があっても無くてもそれまでの経緯で十分ゾフィの苦悩は伝わっているので、どっちでも良いと言えば良いし、その意味ではそもそも「ベラリア」自体が余計な場面なのですが、日本版だとあの場面でゾフィは寿命を全うし、トートダンサーズに連れて行かれます。個人的にはウィーン版の描写の方が蛇足感が無くて好みです。

それからトート。DVDや来日記念コンサートでマテさんのパワフルで男臭い歌唱の威力は十分堪能できていたつもりでしたが……すみません、甘かったです。マテトート、本舞台での迫力、段違いではありませんか。シシィに「おらおら早くこっちの世界へ来んかい!」と言わんばかりのあの強引さと健康的な色気。そうだよね、あのシシィはこのくらい打って出ないと連れて行けないよね、と、シシィとトートのデュエット『私が踊る時』の力強いダンスを眺めながらしみじみ考えたものです。日本における「死」はちょっとデビル入っていても良いけれど、ウィーンシシィが求めていた「死」は決してそうではなかったのだと考えさせられた場面でもありました。

そして、何と言ってもルドルフ。正直、DVDをそんなに身を入れて繰り返し観た訳では無かったので(だってあの演出、即物的だし、ルドルフがルカスくんじゃないし……(完全に言い訳))、日本版と場面順序が異なり、シシィの放浪場面からいきなり『闇が広がる』が始まりルドルフが登場したのにびびりました。トートとルドルフの歌声は身体にびりびりと強く響いて染み渡ってきて、ああ、この曲って、ルドルフは決して腺病質で脆くて闇に怯えるだけではなく、母親シシィと同様自分を貫こうと抵抗し続けた人間なのだと知らしめる為の一曲だったのね、と初めて合点がいきました。この解釈には、ルカスくんの端正なヴィジュアルも多大な寄与をしていると思います。
しかしシシィ、息子の渾身の一言を「騒がしいわね」ですか……。しかも御髪を整えながら。日本版の「わからないわ久しぶりだもの」も随分な女だぜ、と思いましたが、ウィーン版シシィ、それ以上でした。

全体に、ウィーン版エリザの舞台からは、歌、音楽、ダンス、演技の総合力の高さもさることながら、「力強さ」「生命力」を強く感じ取りました。一方で、生命を持って生きている人間達の「解り合え無さ」とか「理不尽さ」なんていうのも伝わってきたりして。
それでは日本版エリザが本場と比べて劣るかと言うと、決してそうではないと思います。確かに総合力で弱さがあるのは否めませんが、オーストリア周辺の歴史や文化に疎い日本人にも分かりやすいように再解釈、再構成された演出により、オリジナルの舞台に込められた「人間」そして「生」と「死」についてのメッセージはきちんと伝えられているのではないでしょうか。
また、例えばチェスのコマに変身したゾフィ一派なんて、日本人がそのまま演じるとギャグになりかねないし、逆に白塗りヴィジュアル系トート閣下がそのままウィーンに受け入れられるのは難しいでしょうけれど、実際にウィーン、日本、ハンガリー等で、お互いの演出を良いとこ取りして向上し合っている理由の一端が、たった一度とは言えウィーン版を観て少しだけ分かったような気がしました。

終演後のカーテンコールでは、何度目かで、客席にいらしたリーヴァイさんが舞台に上げられ、一緒に踊ったりしていました。また、幕が下りても鳴りやまない拍手に対し、更に2、3回、マヤさん、マテさん、ブルーノさん、そしてちびルド役のダニエルくんが登場していました。ダニエルくんはマテさんに抱っこされたり肩に乗ったりしていました。後でパンフでチェックしたところ、今回のちびルド達7人は1人を除いて横浜にあるドイツ人学校の児童だったそうで、ダニエルくんはまだ7歳とのことでした。道理で小さかった筈です。

ところで例の跳ね橋についての疑問なのですが、基本的にあの橋は最後にシシィを死の元へ向かわせた凶器「ヤスリ」がモチーフであると聞いていました。今回実際に舞台で観て表面にヤスリ状の筋が入っていたので確かにそれはそのとおりなのだと思いますが、一つ気になったのは、跳ね橋に乗って「最後のダンス」等を熱唱するトートが、跳ね橋の欄干をたぐる姿がまるで弦楽器をかき鳴らしているように見えたということです。実はあの跳ね橋は、シシィの父親マックスが持っていたチター=シシィが現世ではついに得られなかった魂の自由を象徴していたなんていう解釈があったりはしないでしょうか?