日々記 観劇別館

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『ジキル&ハイド』感想(2007/4/14ソワレ)

ヘンリー・ジキル/エドワード・ハイド=鹿賀丈史 ルーシー・ハリス=マルシア エマ・カルー鈴木蘭々 ガブリエル・ジョン・アターソン=戸井勝海 ダンヴァース・カルー卿=浜畑賢吉

マチネでMAを観た後に友人Sちゃんと待ち合わせ、月末の大阪遠征の勝負服を買うなどしてから日生劇場へ。鹿賀さんもジキハイも初見ということで、ちょっと緊張して観劇に臨みました。
一幕前半は、ジキルが人間の善悪を分離して悪を封じる為の新薬の人体実験を行おうとして、婚約者のエマを除いた誰にも理解されず虐げられる場面が延々と続きます。そりゃこの19世紀末時代にあってはジキルの理論は突拍子も無さ過ぎる考え方だし、プライドも天より高くて人当たり悪い人物だけどね、彼なりに精神を患った父上の為に真剣に考えてるんだから、ここまでいじめなくたっていいじゃん、といういらつきがピークに達した頃に、ジキル、自ら被験者になることを決意して服薬、極悪人ハイドに変身するのでした。
この変身シーンの迫力が実に凄まじいです。生真面目なジキルが咆哮し、声色も表情も、そして所作までもが一瞬で野獣のようなハイドに変貌していくさまにただ釘付けになっておりました。この演技を目撃できただけでも今日鹿賀丈史を観に来た価値はあるぞ、と思ったぐらいです。
もう一つ鹿賀さんを観て思ったのが、この方は歌と地の台詞の間の敷居が極めて低いということ。誰かが鹿賀さんの演技を「歌うようにしゃべり、しゃべるように歌う」と評したそうですが、まさに言い得て妙。鹿賀さん、決して滑舌の良い方ではなさそうだけど、歌や台詞の節回しのリズムがかなり独特で、一度耳にしたら忘れられないものがあります。その独特の節回しが、例えば二幕で娼婦ルーシーをマントですっぽり包んで誘惑する場面で生かされています。歌声の端々からかなり色気がだだ洩れ状態です。

そしてハイド、一幕ラストから二幕冒頭まで、分身のジキルをいじめた病院の理事会の連中を仕事人のように実に鮮やかな手口で次々と屠る殺人鬼と化してしまいます。殺し方が相当に残虐で流血もあるにも関わらず、前半のねちねちとしたいじめ場面の為か、むしろ心の中で快哉すら叫んでしまう自分に抵抗を覚えてみたり。また、ワイルドホーン作曲の音楽が、号外を配り歩く新聞売りの呼び声などで実にダイナミックに場面を盛り上げてくれるのです。

ジキルとハイド、二つの人格に振り回される娼婦ルーシーを演じたのは、マルシアさん。発声にたまに演歌の香りを感じることはありますが、精一杯真っ直ぐに生きているのに報われない、人の愛し方すら知らない不器用な女性を見事に演じきっていました。ジキルの優しさに惹かれつつも、ハイドの背徳的な魅力からも逃れられない様子は結構いらいらするのだけど、もしかしたらこの女性は光の世界に心から憧れつつも、一方で悲惨な結末を望んでいたのではないか、と思うと切なさを覚えました。
しかし、女性として共感を覚えたのは蘭々ちゃん演じるエマの方です。階級や因習に縛られた時代にあって精一杯強く真っ直ぐに自己の意志を通し、ジキルを守って生きていこうとする姿が何とも健気。ジキルを愛する気持ちはきっとルーシー以上に固く強かったと思います。

ややネタバレとなりますがラストシーン。ここでそう簡単に幸せになるわけないぞ、と思ったら、最もジキルが(そしてハイドも)望まなかった形で真実が暴露されてしまいました。あの状況においては最早彼らが救われる方法は一つしかなかったのでしょうけれども、最後にそれを望んだのはジキルではなくハイドの方であったというのが何とも重かったです。ハイドは悪徳の申し子として生まれてしまい、人を愛することすら正しい道を通って出来なかったけど、本当は誰よりもそんな自分が恨めしかったんでしょうね。そんなハイドを、そしてジキルを包み込むエマの温かさが、陳腐な表現ではありますがまさに聖母様のようで、涙が出ました。

というわけで、ジキハイにおいてラストに美味しいところを持って行くのは蘭々ちゃん。でも、演技力がなければ持って行けないラストシーンです。……で、ジキハイ、本当に鹿賀さんファイナルなんですか?他に演じられそうな人を思いつかずに困っています。浜畑さん、トイカツさん(今回ちょっとアターソンは存在感弱かったけど声が綺麗!)と、脇を固めてるキャストもレベル高いし、このまま封印するのはもったいないです、ええ、本当に。