日々記 観劇別館

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『レベッカ』原作・映画・舞台版比較

前のエントリで、原作『レベッカ』で最も好きなシーンが映画版・舞台版のいずれにも入っていない、と書きました。
どのシーンかと申しますと、「わたし」とマキシムがレベッカの手帳に記されていた医者の所に真相を質すためにロンドンに向かう前夜の場面。もしかしたら最後になるかも知れない2人の夜を、何度も接吻を繰り返しながら過ごすエピソードです。あのぎりぎり感と申しますか、互いへの切迫した想いというのは、マキシムが明確な意志を持ってレベッカを葬った、罪深い行為*1が存在するからこそ余計に盛り上がったと思うので、それ故にマキシムの行為が過失として描写されている映画版と舞台版では成立しないのかも知れません。それでも、あの崖っぷちで夫妻が互いに情を深め愛おしみ合う原作の描写が好きだったので、舞台版にこのエピソードがないのは少し物足りなかったりするのでした。
まあ、マキシムが「わたし」に罪を告白して縋り付くだけで、これだけ心臓が矢に貫かれていると言うのに、上のような一歩間違うとハーレクイン・ロマンス*2東海テレビの昼ドラ*3になってしまう場面を観たら、意識が消失してしまうような気がとてもするので、極めて個人的には「なくて正解」だったと思います。

また、ミュージカルというのは歌と演技で全てを表現するものなので仕方ない面もありますが、無表情の奥のダンヴァース夫人のレベッカへの深く熱い想いや、「わたし」と分かり合いたいのにすれ違うマキシムの苦悩といった登場人物の心境が、劇中歌を聴くと丸分かりになってしまい、原作を読んだ時の「わたし」に感情移入した緊張感というのはこの舞台では薄れていると思いました。

それから、原作でこれでもかと「わたし」の口から語られていたマンダレイの風景の美しさ。映画では冒頭で「わたし」の記憶がマンダレイの森の道を辿り、荒れ果てた屋敷に行き着く様子が再現されていました。でも舞台だと、そうした隠れ里に赴くようなイメージはほとんど見られません。物語の世界観の描写よりも、レベッカに人生を操られたマンダレイの人々の心理描写を主眼に置いて作られているように見受けられました。
少し話題が離れますが、今年2月に観て怒りに燃えた大沢たかお氏主演『ファントム』で唯一良いと思ったのは、オペラ座の地下のファントムの住みかの広いのに閉塞感があるという矛盾した雰囲気や、ファントムがクリスティーンとつかの間幸せな時を過ごした森の空気の清浄さが見事に表現されていた点です。もちろん『レベッカ』のキャストの総合力は『ファントム』とは段違いですし、青山劇場はクリエよりずっと大きい劇場なので、単純に並べて比較することはできませんが、せめて『レベッカ』もあれくらいセットの構造の工夫や照明の駆使による場面空間の表現の技巧が凝らされていれば、とつい歯がみしてしまいます。

一方、舞台で好きな人物設定や場面というのももちろんあります。例えばファヴェル。原作だと悪い色気はあるけれど、不摂生な暮らしを送っていそうでややメタボが入りかけている中年男。映画の彼はスマートだったけど、あまり印象に残っておりません。でも舞台では不健康な色気を放ちながら踊りまくる男。日本で演じるのは吉野圭吾さんという二枚目。もちろん吉野さんの演技の幅の広さとダンスの実力あってこそのものですが、舞台のファヴェルの生き生きとした汚れ役ぶりは大好きです。
あと、くどいようですがダンヴァース夫人。3種類のメディアの中で彼女の取っている行動はラストを除きほとんど差異がありませんが、あの常軌を逸した表情を浮かべた彼女がすぐそばの板の上に存在しているのは、演技と分かっていても、脳内やスクリーンで観るより格段に怖かったです。

もうひとつ、これは「人物設定」というより社会観の問題ですが、舞台で描写されるイギリス人というのが、どう見ても非イギリス人であるクンツェさんが外側から見たイギリス人像でした。もし階級意識がDNAに組み込まれている*4イギリス人がホンを書いていたら、ゴルフ場で社交界の面々が群舞しながら仮面舞踏会の噂を交わす、という場面は入れなかったような気がするのです。仮に入れていても、もっと辛辣に嗤うような描き方をしていたんじゃないかと思えてなりません。
ただ、そもそも原作者であるダフネ・デュ・モーリアという人自体が、やや偏屈な性格で、上流階級に属しながらハウスマダムとして振る舞うことが苦手だったという、マキシムと「わたし」を足して2で割ったような、所謂イギリス人のステレオタイプからは外れた存在だったそうなので*5、階級社会は「わたし」に取って決して嗤う存在ではなく、あくまで倦むべき存在であるという、あのゴルフ場ダンスに代表される描写はきっと正解なのだろうと思います。

また、先ほど場面空間の表現がイマイチ、と偉そうな書き方をしてしまいましたが、プロローグとエピローグの海辺の場面は、何も海らしきものはなくて波音しかしないのに、靄が立った海岸にすっかり大人の女性になった「わたし」が佇み、後ろから人々の影が現れるだけで、潮の香りが漂ってくる感じがして、結構好きです。原作のプロローグではすっかりオマケの人生を静かに送る世捨て人風になっているマキシムが、舞台ではエピローグに現れて、年を取ってもしっかり「わたし」を包み込んで生きている雰囲気を漂わせているのも良いと思います。

というわけで、色々と突っ込みどころや無い物ねだりこそあるものの、総体的に見て私は舞台の『レベッカ』は嫌いではありません。むしろ、これならリピれる、と先日の公演を観て確信いたしました。日本上演版には「これから作り込んでいく」という空気は微塵もなくて、既にきっちり完成形になっているように見えましたが*6、舞台は水物なので、また次に観る時は違う印象を与えてくれるに違いないと楽しみにしております。

*1:人情として情状酌量の余地は十分ありますが、神の御前においてはやはり罪が深いと思います。

*2:あのシリーズを読んだことは1冊もありません。

*3:余談ですが先日、某作品を偶然平日自宅に居る機会があって観たら、それまで主人公に恋愛感情は抱かず信頼しか寄せていなかった(らしい)主人公の夫(知的障碍あり)が、別の女(弟の妻)に失恋して薔薇の花びらをちぎって床に敷き詰めて自暴自棄になり、初めて主人公に縋り付いて一夜を……という、もの凄い展開になっていました。

*4:それもまた非イギリス人の偏見かも知れませんけど。

*5:デュ・モーリアはフランス系イギリス人ということで、その影響もあったのでしょうか?

*6:完成形というのはあくまで演出の話であって、山口さんが歌をセーブしているとかそういう点は別です。