日々記 観劇別館

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遠藤周作『王妃マリー・アントワネット』

M.A.の原作である標記の小説を、上巻(ISBN:4101123217)まで読んだ時点であまり感覚に合わないと感じ、しばらくほったらかしにしてましたが、ようやく下巻(ISBN:4101123225)まで読了しました。以下、ネタバレモードで書かせていただきます。

現在上演されている舞台が小説版からキャラクターを借りただけの別物だということは、前半を読んだだけでも十分にわかっていましたが、今回最後まで読んでみて「これは『原作』じゃなくて『原案』なのだ」とようやく理解するに至りました。
読後の感想として、「原作からキャラクターが変更されて良かった」と感じさせられた人物と、全く逆の印象を覚えた人物とが居ました。前者の代表がマルグリットで、後者の代表はアニエスです。

まず、マルグリットのキャラクター造型は舞台の方が遙かにわかりやすいです。小説のマルグリットは自らの逆境から来る様々な憤りを昇華させる為に、アントワネットを憎み、富者をターゲットとした悪事への荷担や革命の美名を借りた暴力に参加して陶酔するしか為す術を持っていません。そうした罪深き人間をこそ救うのがキリストの教えであり、実際彼女は自らが意識しない間にアニエス、そしてアントワネットという2人の人間の命と引き替えに浄化されていきます。
このような人物像を舞台でそのまま表現しようとしても、きっとわかりにくいままに終わってしまうことでしょう。そうした意味で、いわばアントワネットを「憎むべきラスボス」としてしか見ていなかった、魔人カリオストロの掌で踊るゲームの齣=マルグリットが、単に受け身で浄化されるのではなく、ラスボスも自分も人間なのだということに目覚めていくというキャラクターの変更は、特に日本という宗教色の薄い国で上演するには受け入れられやすいのだと思います。

一方、小説におけるアニエスの生涯を見てしまうと、暴力に酔うマルグリットの心に理性の石つぶてを投げ、ブレーキをかけるにとどまる舞台でのアニエスはかなり物足りなく感じられます。もちろん舞台においても、幼い頃からマルグリットを見守ってきた、より関係の深い人物であり、無くてはならない役柄ではあります。しかし、深く神に帰依するが故にあえて野に下り、革命の精神的扇動者と対峙した末、内心望んでいたとは言えはずみで人を殺め、自らの魂を御手に委ねることによりマルグリットにわずかな光を与えるという、原作におけるアニエスの人物像を知ってしまうと、舞台のアニエスの存在が軽んぜられているように見えて仕方がありません。

先ほど、日本においては宗教を前面に出すよりも、人間マルグリットの成長譚として描いた方が受け入れられる、と記しました。では、愛を知らなかったマルグリットの生と、神を愛して全うされたアニエスの生とは、ストーリー上果たして両立できなかったというのでしょうか?否、私には決してそうは思えないのです。
アニエスも、神をもちろん愛してはいましたが、同じ位、あるいはそれ以上に愛して救おうとしたのは人間なのですから。いくら信仰心の薄い日本人が対象であっても、キリストの教えが本質的に有している人間への愛をもっと盛り込み、観客の心に染み込ませるような脚本と音楽の工夫は出来たのではないでしょうか。

アントワネットも原作と舞台では物語における存在意義が異なっており、とりわけ原作におけるマルグリットとの関係については実に複雑なのですが、あの結末を実際に舞台に表現するだけでなく観客の共感を呼ぶのはかなり難しいと思うので、ひとまず横に置かせていただきました。アントワネットが最後にマルグリットを救うという行動で、互いの魂が浄化されたと思うのだけど、その事実をマルグリットがついに知らないままであるというのはあまりに痛々しすぎますし。まだ、今回の舞台の虚しい「自由」を叫ぶ結末の方がましであるというものです。