日々記 観劇別館

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スタジオライフ『アドルフに告ぐ』(日本篇)感想(2015.7.18ソワレ(MJキャスト))

キャスト:
アドルフ・カウフマン=松本慎也 アドルフ・カミル=緒方和也 峠草平=曽世海司 ヴォルフガング・カウフマン=船戸慎士 由季江=宇佐見輝 イザーク・カミル=藤原啓児 マルテ・カミル、赤羽刑事=大村浩司 エリザ・ゲルトハイマー=久保優二 アセチレン・ランプ=倉本徹 本多大佐、米山刑事=牧島進一 本多芳男=仲原裕之 小城先生=鈴木智

アドルフに告ぐ』。当初予定に入れていなかった観劇でしたが、ペア観劇チケットに当選した友人からの招待というご縁がありまして、紀伊國屋ホールにて観てまいりました。初スタジオライフにして初紀伊國屋ホールです。

紀伊國屋ホールは、古い劇場なので、実は椅子があまり良くありません。
最初、入口で低反発クッションを渡されましたが、
「この座席と自分の身長ならクッションでの高さ調節はいらないな」
と判断してクッションを返してしまい、後で悔やむ羽目に。
そう、椅子の座面にあまり重さがないので、座っていて安定せず、背もたれにしっかり背を着けて腰掛けると、腰に負担がかかるのでした。多分、低反発クッションはお尻ではなく、背もたれに敷いて姿勢を安定させるために提供されていると思われます。
次回同じ劇場で観る機会があったなら、絶対クッションはキープするぞ!と心に誓いました。

さて、『アドルフ』ですが、意外と原作に忠実な、ダイジェスト的印象を与える内容でした。
それが作劇として面白いかというと、正直、原作にいくつもある山場を2時間少々の脚本に盛り込みまくった結果、やや駆け足な展開であったという印象です。しかし、原作にはあった芳男青年の恋愛要素やアセチレン・ランプの逆恨みなどのわき道の枝葉を切り落として、道筋をすっきり整えていて分かりやすい展開にはなっていたと思います。
ただ、今回観たのは実は「日本篇」で、この演目には他に「ドイツ篇」と「特別篇」が存在します。
例えば日本篇には存在のみ語られ姿を現さなかった「もうひとりのアドルフ」ことアドルフ・ヒトラーがドイツ篇には登場するなど、基本ストーリーは同じながら少しずつ細部が異なるようです。
多分、本来は3篇とも観てようやく全容が見えるお芝居なのではないか?と推測します。今回は自分でチケットを確保したわけではなく、しかも急遽観に行くことになった演目なので、その辺の事情は全く把握せずに語っていますが、違っていたらすみません。

――以下、舞台の結末に触れていますので、未見かつ今後ご覧になる予定がある方は引き返しを推奨します。

原作のあの場面、この場面が、所々端折られつつも、生身の役者さんを媒介して目の前で次々に展開されますので、かなり以前に読了した原作をもう一度読み直すような気持ちで今回の舞台を鑑賞しました。
冒頭のシーンに終盤でまたループしていく形式でしたが、物語の結末を知っていても、2人のアドルフの人生を翻弄した戦争と理不尽な権力、そして民族・人種差別の存在がとても厭わしく、そして悲しい思いにとらわれました。

私的に最も重要と感じた原作からの変更点は以下の2つ。
原作では確か、パレスチナでのカウフマンの子供は非戦闘員の幼児でしたが、この舞台では戦闘員として戦いに参加している少年とも取れるイメージになっていました。もっとも、舞台に子供達が出てきた時には既に死体なので確証はありませんが。
あとカウフマンとカミルの最終決闘。両者の生死が不明な終わり方となっていましたが、原作ではカミルが生き残っています。保身のためとは言えカウフマンがカミル父を殺したという疑惑に対し、カミルが決着をつけようと思ったのが決闘に応じた一つの動機でもあった筈ですが、舞台ではその辺りの心情には触れられていませんでした。

そう言えばカウフマン、カミル父やエリザの家族の件について、カミルやエリザの前で一切弁解していないのですね。
「純血のアーリア人」ではないためにナチス内部での不本意な保身を強いられたという点では、彼にも同情すべき要素があったわけですが、彼にとってはそのような恥ずべき事実(純血ではないこと、それ故に課せられた試練の重さに揺らぎ、器用に立ち回れなかったこと)を口にして弁明することより遥かにヒトラーへの尊敬と忠義と汚名返上が大事であったのか、それとも「そんな個人的事情で酌量されないような取り返しの付かないことをした」という自責の念が心のどこかにあったのか……。その辺りのカウフマンの心境は、正直、昔原作を読んだ時にも、今回の舞台を観た現在でも十分には理解できませんでした。

もう1人のアドルフことカミルも、その喧嘩っ早いながら誠実な人柄と正義感の強さ故に過酷な試練を負わされこそしますが、行動原理はカウフマンより遥かにシンプルで分かりやすいのですね。ただ、恐らく彼はその人柄故に戦後イスラエルに生きる道を選び、終盤の悲劇に結びついてしまったわけですが……。

それから、人間が苦境に置かれても高い誇りを失わず生きるのはとても大事なことだと思いますが、アドルフ達の人生を狂わせたのは、あの秘密文書の存在だけでなく、各々が抱いていた「プライド」もあるのではないかと思います。民族性へのプライド、支配者としてのプライド、コンプレックスを克服したプライド……。それらのプライドが人道や友情に優先して発揮されてしまった結果、悲劇が起きたと考えると、人間のプライドってどんな局面においても頑なに貫くべきなのだろうか?でもプライドがその人の生きがい、ひいてはアイデンティティそのものになっていたら一体どうしたら良いのだろう?と、やり切れない思いがぐるぐると頭を巡っています。結論は出ません。

……劇の感想から少し逸れましたので、話を戻します。
若い頃原作を読んだ時には十分汲み取れなかった登場人物の心情や魅力が、今回年を経て演劇という違う形で物語に再会したことにより、何となく見えてきたように感じられました。
例えば本多大佐。芳男青年とのエピソード以外あまり印象に残っていなかったのですが、今回、由季江への思慕の純粋さと静かに一途に尽くす姿が本当に美しくて、
「こ、こんな素敵な人だったっけ?」
と戸惑った次第です。
また、昔は峠に心を傾けていく由季江の心境や、自分の命を救った筈のカウフマンを家族の仇と拒絶するエリザの心境に今ひとつ理解が及ばなかったのですが、今はだいぶ彼らの思いに気持ちが及ぶようになったと思います。
ミュージカルの世界に最近「2.5次元ミュージカル」*1というカテゴリがありますが、『アドルフ』は漫画が原作ではあるものの、板の上という虚構ではありますが現実としっかりリンクしている3次元から、客席の人々が存在する世界と隣り合わせに生きる人間達の姿が、生々しく説得力を持って伝わって来ていました。
これだから舞台って観るのを止められないのです(ぼそ)。

ところで、由季江や小城先生、エリザといった女性キャラクターを男性が演じるというスタジオライフの方式については、もう少し違和感を覚えるかも?と思っていましたが、意外にもほとんど違和感はありませんでした。
これは、実力のある役者さんが、地声のままで堂々と女役に臨んでいたためと思われます。変に性別を意識して作りすぎないからこそ見えてくる役の本質というものが、確かにあると感じられました。

終演後には、キャストの方数名のトークショーが15〜20分程度ありました。
峠役の曽世さんの司会進行で、宇佐見さん、松本さん、緒方さん、あと少年役を演じた方2名ほどが出演されていたと思います。

宇佐見さんとあと少年役のどなたかが「玉音放送」が読めなかった、という話が強く印象に残っています。というかその話が衝撃的過ぎて、他の大半のエピソードの記憶が飛んでしまったわけですが(^_^;)。
確か宇佐見さんが本読みで「たまおとほうそう」と読み、もう一方が「お前何言ってんだよー」と笑いつつ実はそれまでその単語の読み方すら考えたことがなかった、というオチだったと思います。爆笑しつつ、若手役者の皆さま、本当にお若いんだなあ、としみじみ。

あと覚えているのは、松本さんが、同じ役柄のある場面で、同じ状況でも日本篇とドイツ篇では台詞のタイミングが違うのを、日本篇でうっかりドイツ篇のタイミングで台詞を発してしまい、別の方が台詞を被せてきて初めてミスに気づいた、というエピソードです。
皆さま少しずつ展開が違う(らしい)3篇を並行上演している上に、Wキャストで、しかもある公演でメインキャストの方が、メインキャストを外れている公演でも複数の脇役を早変わりしながら務めている、という驚愕の状況。ミュージカルでもレミゼのようにプリンシパルがアンサンブルを兼務する演目はありますが、『アドルフ』の場合、メインストーリーが一緒で細部の描写が異なる脚本が3種類あり、役者さん達はそれらにそれぞれ違う役どころで出演しているわけで……プロって凄いです。

いつもの如く、長くなりましたが、感想は以上です。

おまけの写真。

劇場の帰路に少し遠回りして友人に連れて行ってもらった、新宿コマ劇場跡地に建った新宿東宝ビルにお住まいのゴジラさんです。スマフォのカメラで撮影した夜景なので、あまりクリアに写っていないのが残念。

*1:漫画やアニメという原作付きの演目の中でも、原作の世界観やキャラクター像の色濃い投影を特に重視して作られた演目、と自分は解釈しています。