日々記 観劇別館

観劇(主にミュージカル)の感想ブログです。はてなダイアリーから移行しました。

『ジキル&ハイド』初日感想(2016.3.5ソワレ)

キャスト:
ヘンリー・ジキル/エドワード・ハイド=石丸幹二 ルーシー・ハリス=濱田めぐみ エマ・カルー笹本玲奈 ガブリエル・ジョン・アターソン=石川禅 サイモン・ストライド畠中洋 執事プール=花王おさむ ダンヴァース・カルー卿=今井清隆

有楽町の東京国際フォーラムCホールにて、『ジキル&ハイド』初日を観てまいりました。
初めから初日を狙ってチケットを取ったわけではなく、日程の都合でチケットを確保したらたまたま初日でした。

国際フォーラムはロビーの空間に余裕が少ないので、開場間もなくは客席行きエスカレーターの待機列と物販の待機列が重なってしまい、軽い渋滞が発生していました。
加えて開場から開演までが僅か30分という時間設定は慌ただしいし、人もめちゃ混みだしで何だかなあ、とも思いましたが、空間に余裕がない所に1時間前から入場させても観客が困るだろうし、まあ仕方ないだろう、と思いながら物販の列に並ぶなどしていました。
空間の余裕の少なさは専用劇場ではないからだろうか?とも思いましたが、赤坂ACTシアターなどでも不満を抱いたことがあります。この辺りの話を語っていると長くなるのでまた次の機会にいたします。

さて今回、広いCホール2階席からの観劇なのに、オペラグラスを持参するのを忘れてしまうという痛恨の失敗をしてしまいました。このため、以下は役者さんの声とアクションだけが頼りで、細かい表情などは見られていない状況下での感想です。ご了承ください。

石丸さんは、再演ということもあり、ヘンリーもハイドも前回以上に身体にしっかり染み込み、板の上で彼らとして生きていると言う印象を強く受けました。

ヘンリーが新薬の臨床試験を急いだ理由は何よりも父上の病*1の治療のための筈なのですが、今回のヘンリーの行動の動機には何となく、父上のためというよりは「自分の画期的な研究成果の有意性を認めさせる」という目的の方が強く根ざしているように思われます。
ヘンリーの実父やダンヴァース卿への態度などから、彼のファザコンに近い心境は感じられ、父上達に認められたくて頑張っている所もあるのだろうとは分かります。ただ、石丸ヘンリーの力強い台詞回しと歌声からは、承認欲求よりも科学者として真実を知りたいという思いの方が強く勝っているように感じられました。

そういうこともあってか、今回のヘンリーに対しては、
「どんな運命になろうとも、それは自分の選んだ道とその結果なのだから、仕方ないでしょ?」
とつい厳しい思いを抱いてしまいました。あの薬で悲劇が起きれば起きるほどに、これが貴方が親しい者達の憂慮を押し切る程に強い思いでやりたかったことでしょ?落とし前はつけないとね?と妙に上から目線で言いたくなってしまって困りました。

石丸さんの歌と演技についてもう少しだけ語らせてください。
「時が来た」の語りながらすっと歌に入って行き徐々に盛り上げていくところ、ヘンリーからハイドが生まれ出た後の「生きている」での生命の爆発と暴走、そして「対決」での二役のスイッチ切替等々、ひたすら「凄い」としか言いようがありませんでした。
ただ、「罪な遊戯」はやっぱりあまり色気はないと感じました。少なくともかつての鹿賀さんのハイドのような相手をじわじわ陥落させるような手練手管はないという印象です。
しかし、石丸ハイドと濱田ルーシーとの間からは、ハイドがルーシーを支配し、相手の身体を痛めつけ、同じ時を共有しているのに、決して心は手に入れられていないもどかしさ、じれったさが漂ってきていました。鹿賀ハイド&マルシアルーシーとはまた少し色合いの異なる見せ場を作り出すことに成功していると思います。

その濱田ルーシーについてですが、今回、観る側としてはどちらかと言えばルーシーに感情移入しながら観ていました。娼婦として苦しい生活を送り、ハイドの暴力を恐れ、ヘンリーのささやかな優しさと希望を信じてすがろうとする一方、心のどこかでハイドのもたらす背徳的な快楽にも魅惑されているルーシー。この、人の弱さと善意とを体現したようなルーシーに、濱めぐさんの歌良し、姿良しの好演もあって、すっかり惹き付けられました。彼女の力まない発声と鍛え抜かれた身体は努力と才能の賜物ですね。
ハイドとルーシーの関係は最悪の惨劇で終わりを迎えてしまうわけですが、もしかすると彼らの間には心に問題を抱えた者同士の共依存的な関係もあったのかも知れません。
アターソンがルーシーに「逃げろ」と告げて去る場面では、その後に起きる惨劇を知っている観客としては「アターソン、置いてかないで連れて逃げてあげて!」とつい願ってしまいました。でもあの時点ではアターソンはハイドの暴力・殺戮行為までは知らないのですよね。薄々察していたかも知れませんが*2
それでも、ルーシーは悲惨な最期を迎える直前の束の間とは言え、
「私のように卑しく蔑まれてきた者でも、新たな人生への希望を持っていいんだ」
と思えただけ幸せだったのでしょうか。考えると辛いので、できればそういうことにしておきたいところです。

アターソンは、今回は禅さんが演じられていました。
ジキハイの重く哀しい物語の中で、特に1幕では禅アターソンの軽妙さと親友への優しさに救われていたような気がします。あの柔らかい優しさがあるからこそ、2幕でアターソンがハイドの正体を知って以降の悲劇性が数倍増しになっていたと思います。
なお、余談ですが、前回2012年にジキハイを観た時の感想で、ルーシーのソロ「連れてきて」での吉野圭吾さんの「踊るアターソン」について書いていたのを見つけました。今回、禅アターソンは特に踊ってはいなかったので、2012年のあれはやはり吉野アターソンに当てたスペシャル演出だったと思われます。

エマ役は、玲奈ちゃんの前回からの続投でした。
今回の玲奈ちゃんエマ、これまで観たどのエマよりも(と言っても本人の前回のエマも含め、2人しか観ていませんが(^_^;))、芯が強く無償の愛で包み込んでいて大人な感じで良かったです。発声も強すぎず聞きやすくなったと思います。欲を言えばファルセットがもう少し綺麗に出て欲しい、とは思いますが。
彼女のナンバーでは、ヘンリーとの甘々なデュエットも良かったですが、ルーシーとのデュエット「その目に」での凛とした強さが印象に残りました。
考えてみれば、20歳そこそこの頃から彼女を観ているので「玲奈ちゃん」とか言ってますが、この文章を書く前に実年齢を調べて「がーん」となりました。 もう彼女もアラサーの大人の役者さんなのですよね……。

他のアンサンブルも含めたキャストの皆さまも素晴らしかったです。今井清隆さんのパパ役(ダンヴァース卿)のこれ以上はないはまりっぷり、宮川浩さんの大司教の嫌らしさ、阿部裕さんの将軍の横柄さ、林アキラさんの小物っぷり、そして2幕のトップバッターなどを担当する麻田キョウヤさんの新聞売りの歌の確かさ、等々。 特に新聞売りは歌、特に高音が確かでないと舞台が崩れるため、歌ウマな人必須なので*3、今回も麻田さんで本当に良かった!と思いました。

今回初めて気づいたのですが、2幕のフィナーレである結婚式の場にはルーシーを除くキャスト全員が登場しているのですね。元々キャスト数がそれほど多くないこともありますが、それでカーテンコールへの移行と全員のお出ましがとてもスムーズなのだと思います。
カーテンコールには、演出家の山田さんと、作曲家のワイルドホーンさんが登壇し、それぞれにご挨拶されていました。
最後の追い出し演奏があり、もう一度だけキャストのお出ましがあった後に終演となりました。
山田さんのご挨拶によれば「まだいくつかダメ出しがある」そうですが、初日でこれだけ完成度が高かったら楽日の完成度は凄いことになるんじゃないかな、と個人的には思いながら劇場を後にしました。

*1:認知症あるいはアルツハイマー病などと想像していますが、これはあくまで想像です。

*2:ヘンリー自身がハイドの全行動を把握しているわけではないので当然ではあります。

*3:歴代の新聞売りキャストは阿部よしつぐさん、寺元健一郎さんです。