日々記 観劇別館

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『マリー・アントワネット』観劇感想(2006/12/2ソワレ)

キャスト:マリー・アントワネット涼風真世 マルグリット・アルノー新妻聖子 アニエスデュシャン土居裕子 アクセル・フェルセン=井上芳雄 ルイ16世石川禅 ボーマルシェ山路和弘 オルレアン公=高嶋政宏 カリオストロ山口祐一郎 ルイ・ジョゼフ=川綱治加来 ルイ・シャルル=大久保祥太郎 マリー・テレーズ=黒沢ともよ

3回目のM.A.を観てきました。
役者さん達、だいぶこなれてきてるように見受けられました。
特にボーマルシェ。ぼやきタイムが半月前よりもずっと長くなっています(^^;)。定番の指揮者塩田さんとの掛け合いの他、「たまには愛の歌を歌いたいなあ」とか言って何かを口ずさんだりしてました。後でも述べますが、2幕になるとボーマルシェは自分の仕掛けた世界に押しつぶされてどんどん余裕が無くなっていくので、首飾り事件までは彼の想定の範囲内(古い?)なんだろうな、と思ってみたり。
オルレアン公、ソロでの高笑いがルキーニと同じ……。何か、序盤の舞踏会でのメイクが徐々に濃くなっていくように見えるのは私だけでしょうか?


それから、おおっ!?と思ったのは、新妻マルグリット。初日から間もない時期(11/5)に観た時よりも、年代毎のマルグリットが豊かに変化していたように思います。
特に1幕の序盤、アントワネットに侮辱を受けた後の「100万のキャンドル」は、アントワネットに対する「怒り」よりも、苦しい世の中に対して無力な庶民であることの「悲しみ」に満ちていました。新妻マルグリットの場合、マダム・ラパンの誘いを受けて娼館に身を投じたのは、自分も無力ではない何かになれるんじゃないか、という気持ちからであって、まだこの時点ではアントワネットに対しては「憎い」よりも「悔しい」「見返してやりたい」という気持ちの方が強いように見えます。
実際にアントワネットを憎む心や、彼女に復讐できるなら何でもやってやる、という心がマルグリットに宿るのは、マダム・ラパンが殺されてからのことです。ひとたびそういう心を宿してしまえば、彼女を強烈な権力欲を宿したオルレアン公と出会わせるのは、魔術師カリオストロに取ってはたやすい技なわけで。


こうして集められた7つの悪徳が調合される首飾り事件の場面。前に観た時には1つ1つの人物や出来事の発生が単調で、正直「?」な印象もあったのですが、今回は見事に調和してました。カリオストロが魔法のバトン(笑)で繰り出す魔術が盆の上の出来事に違和感なく活かされて一体化してハーモニーを奏でている感じです。これならばカリオストロは不要、なんて言わせないぞ、と思わせてくれました。確証はありませんが、カリオストロの動き、「何かやってる」ことがわかりやすくなるように初期から少し変わったような気がします。


そして1幕クライマックスの宮殿。自分の観ていた席は2階のG列の上手寄りでしたが、ここからだと舞台から下りた後上手の階段下で微動だにせず待っているカリオストロの頭だけが見えるという微妙に美味しい席。「待て」をするわんこの様にじっとしているカリオストロに心の中でガンバレ、と呼びかけてしまいました。
この場面で最近気になりだしているのは「老けた赤ずきん」こと生臭坊主ローアン大司教を演じる林アキラさん。実は山口さんに負けず劣らずマント捌きが美しい方だと個人的には思っております。数々の舞台で歌唱指導をこなされていることもあって、歌声も聴きやすくて綺麗。大司教様、事件の被害者とは言え、腐敗しきってどうしようもない人物なのに、ここでは男の純情を裏切られた悲しみと屈辱とが渦巻いていて、少しだけ同情してしまいました。


2幕序盤で釈放されたマルグリット。もう1幕でアントワネットに侮辱されて泣いていた女の子の影は微塵もなく、迷いもなく革命に突き進んでいる、筈なのだけど、アニエスの厳しい言葉の石つぶてが彼女の心に投じられます。ここでのアニエス、好きなんですが、原作の自ら行動を起こしていた彼女と比べると、ややインパクトは弱いかな?でも、ここでのアニエスの言葉が、女衆+女装オルレアン公(オルレアン子?)の宮殿突入の時にマルグリットが「王妃を殺すな」と叫ぶことにつながるわけで、やはり重要な場面だと思います。


前後しますが、女衆の洗濯場でマルグリットが扇動を試みる場面でのカリオストロ。以前は、雷鳴をとどろかせた後程なく姿を消していたように思いますが、今回は女衆がオルレアン公に買収されるあたりまでずっと白い光を浴びて立って見守っていました。これも実際に出番が伸びているのか、私の目の錯覚なのかは不明です。


国王一家逃亡の場面で、ミニチュアの馬車を止めるカリオストロの黄色い旗出し。いつも、「今日はスムーズに出せるか?」という心配があって本筋そっちのけで見守ってしまいますが、今回はちゃんと出せていました。実は毎日1人でこっそり練習してるんだろうか。


ボーマルシェはようやく自分が荷担して作り出した世界が地獄に向かっていることに気づき始め、慄然としますが、カリオストロは超然としてます。1幕の途中、国王夫妻がギロチンの試作品を眺めてるあたりでカリオストロが「私には見える。国王夫妻の首が2つ並んで……」と歌ってますので、彼には既にその時点で全部お見通しだったということなのでしょう。恐ろしい魔人です。
ちなみに、そもそもその恐ろしい魔人の役割を何故、史実では一介の詐欺師に過ぎない人物に負わせたのか?という根本的な疑問を、月刊『ミュージカル』の1月号で評論家の扇田先生が呈されてましたが、私はそこは深く考えないことにしています。
しかしどうしてこの人、何を演じても「人ならぬ者」に見えるんだろう……?


牢獄で国王一家の世話をするうちに、国王一家の「人間」に触れ、更にアントワネットが自分と同じ歌を知っていることが分かって、アントワネットに嫉妬しつつ動揺してるマルグリット。前出の月刊『ミュージカル』1月号のクンツェさんのインタビューを読んだところ、やはりアントワネットとマルグリットの血の繋がりを暗示する意味であの場面を入れたそうです。その後の展開に血縁関係はほとんど影響しないので、あえてそういう関係にすることの意味は何だろう?『ラ・セーヌの星』でも見ましたか?クンツェさん。ただ、それを差し引いても、あの2人が合唱する場面は何とも哀切で泣けます。


そしてフェルセンとマルグリットの手紙奪い合い。アントワネットが死の危険を冒してでも「王妃であり続けること(周辺諸国への密書をフェルセンに託そうとしたこと)」を選んだのを知って、フェルセンが呻いて号泣するのですが、井上君、もう少し演技が成長することを願っています。貴公子でもああいう時はもっと思い切り震えて泣いてほしいです。歌は良いと思うのだけど。


フェルセンとの最後の別れ、王子との隔離を経て、何もかも(ブロンドの髪すらも)失ったアントワネットは、訪れる死を黙って受け入れることが最後の王妃としての矜持と信じて処刑台に向かいます。ここで飛び出そうとするマルグリットを、アニエスが懸命に止めるのがよく分かりません。革命の暴走で多くの人の血が流れて、ここでマルグリットまで無意味に命を落とすのを止めなければ、ということなのかも知れないけれど、もう少しアニエス本来の辛辣さがあってもいいのでは、と思いました。


登場人物のそれぞれが自分の思っている「自由」を叫ぶ不協和なエンディング。
マルグリット。自分のやってきたことは一体何だったのかと嘆いてるけど、多分あなたの魂はこれまでのアントワネットとの関わりで救われているから、全く無意味じゃなかったと思うよ。
カテコでのアントワネットのざんばら髪白装束には不満はありますが、いい加減目が慣れてきました。


今回はSカード+eチケットの貸切日でしたので、特別カテコがありました。ここで涼風さんがまだ白装束だったらどうしようと一抹の不安がありましたが、大丈夫、ちゃんと王妃様の水色のドレスに着替えて、新妻さんと山口さんとともに出てきました。頼む、いつものカテコでもそれ着てくれぇーっ!(わがまま)
挨拶で涼風さんが「寒くなりましたが皆様お風邪など召されてはいませんか?」と語った瞬間、帝劇中に響き渡るバズーカボイスのくしゃみが!山口さん、やっぱり貸切カテコでは必ず何かやることになっているのですね。くしゃみの音が定番「ハクション!」じゃなくて「クシュン!」だったのが妙に可愛かったです(^_^)。
山口さんが他の人の挨拶の間中、両手をマントの中に仕舞っているので、これは何かあるぞ、と思っていたところ、予想通り自分の番になって、右手からSカードの、左手からeチケットの垂れ幕をばん!と広げてくれました。マントって便利ですね。


M.A.観劇1回目は呆然、2回目は憤然と見守ってましたが、原作も読了した3回目ということで、かなり素直に楽しめるようになって来ました。役者さんの演技にも歌にも(ここ重要)徐々に深みが出てきてますし。上演回数を重ね、それに繰り返しお付き合いするほどに味の出る種類の舞台だと思います。繰り返し劇場に通える環境にありながら、1回だけ観てがっかりした方は、是非観ていただきたいです。


ただし、あのそれなりに予算はかけているけど何の飾り気もない、その割にプチ・トリアノンの奥に見える生け垣だけは無闇にリアルな舞台装置はスルー。生首もスルーしております。血まみれギロチンもまあ仕方ないか、と折り合いを付けております。正月のお屠蘇気分であれを観る九州の皆様には、やっぱりちょっとキツいかも知れません。