キャスト:
ヴォルフガング・モーツァルト=古川雄大 コンスタンツェ=平野綾 ナンネール=和音美桜 ヴァルトシュテッテン男爵夫人=涼風真世 セシリア・ウェーバー=阿知波悟美 アルコ伯爵=武岡淳一 エマヌエル・シカネーダー=遠山裕介 アントン・メスマー=戸井勝海 コロレド大司教=山口祐一郎 レオポルト=市村正親 アマデ=小河原美空
これで帝劇見納めになりそうな『M!』の古川ヴォルフver.を観てまいりました。
ヴォルフとアマデ以外は初日と同キャストです。今回ついに香寿男爵夫人と新コンスのお2人を観ないまま終わりそうな気配が濃厚です。
古川ヴォルフは事前に予想していた以上に歌では善戦していると思いました。とは言え、まだ歌って表現することだけで手一杯で、歌っている間は歌にのみ精神が集中してしまっているという印象です。あと、1幕終盤や2幕クライマックスのキャスト全員のコーラスが入る場面では、ヴォルフの声があまり聴こえてこなかったりもします。
ただ、そのこなれていない、舞台の上でヴォルフとして生き切る為に必死で戦い続けている姿が、古川ヴォルフの子供っぽく純粋で未熟で刹那的な天才の役作りをかえって盛り立てているようにも見えました。アマデ(美空(あおい)ちゃん可愛い!)が才気溢れる子供の冷徹さの権化だとすれば、ヴォルフは子供の脆さと危うさの権化。ヴォルフもアマデもどちらも子供(^_^;)。
育三郎ヴォルフの場合は、逆に中の人が万事そつなくこなす大人な性格である印象がありますが、その分、成熟してはいるが自制心のなさと繊細さ、そして自身に真っ正直すぎるがゆえに思い描いた通りに生きられず、苦しみ続ける人物像を産み出すのに成功していたと思います。
個人的にはどちらかと言えば、古川ヴォルフの傷つきぶつかりながら懸命に一度きりの人生を生き切る人物像が好みではありますが、育三郎ヴォルフから感じられる、天才と言えども(天才であるが故に)逃れることのできない人生の苦味もまた捨てがたいです。
そしてコロレド猊下の一挙一動をつい追いかけてしまう立場としては、2人の対照的なヴォルフに向き合う時の猊下の色の違いがまた楽しかったりするのです。
例えば1幕終盤のヴォルフの猊下の館への乱入場面で、怒りに叫び暴れる古川ヴォルフに激昂しつつも、猊下、どこかはらはらとした表情で見守っているように見えました。育三郎ヴォルフに対してはあまりはらはらはしていなかったと思います。
ところで猊下は大司教という位の高い権力者なので、大体いつも舞台上で庶民のヴォルフより高い位置に立って会話しています(ヴォルフの夢や幻想場面は除く)。アルコ伯爵や男爵夫人(特に男爵夫人)は普通に降りてきて同じ目線の高さで話しているのに対し、猊下は向こうから話しかけられない限り口を利いてもいけない相手。以前の演出では1幕のおトイレ場面と2幕のレオポルト召喚場面では庶民と同じ高さにいた筈なのに、今回はおトイレはカット、召喚場面でも階段の上から話しかけています。ヴォルフはそんなものクソ喰らえ! 音楽家は貴族と同等だ! と初めから意識的にタメ口叩いて喧嘩腰を貫き通すわけです。
その猊下が2幕の「破滅への道」で、かなり不自然なシチュエーションとは言えヴォルフと同じ目線の高さで対話している! と、最初に見た時にはかなり衝撃でした。
以下はただの妄想なので読み流していただいても結構です。
いくらヴォルフが自分は貴族と対等だと主張してみても、猊下の方はヴォルフと対等だなんて一度も考えたことなどないのですが、ヴォルフが理不尽にも神様から素晴らしい才能を与えられた特別な存在であることは悔しくても認めざるを得ません。そして同時にその才能の赴くがままに走り続けたなら、そう遠くない日に宿主が破綻することにも気づいてしまっています。その危うさには多分、レオポルトやナンネールは関係が近すぎるが故に、愛憎関係が濃すぎるがために気づいていないのだと思います。男爵夫人はもしかしたら薄々感づいているのかも知れませんが、それ以上に善意と「自分が彼の才能を支援し引き上げたのだ」という自負の方が強いと思われます。
でも猊下、このままではヴォルフのきらめく宝石が危ない、護らねば! と気づき、せっかく彼のもとまで降りて説得したのに、大衆に喜ばれる芸術の値打ちを評価しないばかりか、「自分の掌中の珠にして独り占めする」以外にアプローチの仕方、そして護り方をご存じないので結局振られてしまうのですね。
以前の演出では考えたこともなかったのですが、そのようなやり方でしか憎みつつ愛する者に接することのできない猊下から、レオポルトとはまた異なる「父親の哀しみ」のようなものが感じ取れて、猊下に憐れみの念を禁じ得ませんでした。古川ヴォルフの場合は特に危うさ加減が強いキャラクターなので余計にそう感じたのかも知れません。
……何だか今回、ミュージカルの感想なのに猊下とヴォルフの感想ばかりで申し訳ありません。
今回、涼風男爵夫人の高音の伸びの半端なさや、2幕序盤の「ここはウィーン」での全身が白くきらびやかに輝く美しさに圧倒されもしていました。
また、最初から最後までどこか疎外感から解放されないしんどさを全身から滲み出させる平野コンスの存在感、そして歌唱力の向上にも密かに感服したりもしていました。
なのにどうしても、
「神何故の猊下の歌い方、初日から変えているし、『おんがーくーのーまーじゅーつー』の声の出し方、何だか進化していませんか?」
と、一周回ってまた猊下に心が行き着いてしまうのは困ったものです。
そんな邪な見方しかできていない自分ですが、多分これで帝劇では『M!』は見納め。新しいコンス達も観たかったし、香寿男爵夫人も憲史郎くんアマデも観たかったよ……と、とても残念に思います。