日々記 観劇別館

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「ファンになる」ということ

誰かーー作家でも芸能人でもスポーツ選手でも誰でも良いですーーの作品、歌や演技、あるいはプレイスタイル、ひいては生き方に至るまでを気に入り愛好することを、「○○さんのファンになる」と称します。
また、プレイあるいはクリエイトする個人ではなく、例えばサッカーなら個々のチームや選手ではなくゲーム展開に、演劇なら作品の包含する世界や演出手法そのものに高い関心を抱いている場合も、同様に「ファン」と呼ばれます。

この「ファンになる」きっかけはとても些細なエピソードだったりしますが、「ファンになる」という行為自体はかなり重いものです。何せファン度合いが高ければ高い程、ファンになった対象に、自分のプライベートな時間、お金、そして愛情を、ありったけの分量注ぎ込むのですから。
しかし一方で「ファンであること」は、好き度合いの高さや重さとは無関係に、ごく簡単に止められるものでもあります。
これまたきっかけは些細だったりするのですが。例えば、
「相手の人格や振る舞いが自分の理想像と食い違っていた」
「演技や競技のプレイスタイル、作家なら作風の変化(時には劣化も)」
「好みや価値観が変わった結果、熱が冷めた(あるいは違う相手をもっと好きになった)」
などがファンを止めるきっかけとして考えられます。
所詮、ファンというのはそういうものです。ファンとなった相手も、ファン自身も、平等かつ移ろいやすい時の流れの中に身を置く、同じ人間でしかありません。ファンクラブに入っている場合は、嫌いになったら止めてしまえばそれで完結します。

でも、それで良いのです。個人的には好きになった相手に関しては、見方によっては欠点とすら見なされることも、チョンボも全部容認してしまう方なのですが、時にはファンであることを止めたきっかけがあまりに不快なものであった場合、反動でとことんアンチになる、というのも認めざるを得ない、と考えています。仮に身近な人がそうなったら寂しいものはありますが、自分に止める権利はいささかもないでしょう。
なお、自分の場合、
「辛く苦しい、あるいは悲しい時も、ファンになった対象のことを思い浮かべるだけで幸せな気持ちになれる」
「もちろん浮上するのは自分自身の力だし、家族や周囲の支えが最強のパワー源だけど、ファンになった対象が大きなパワー源の1つであり続ける」
限りは、その対象のファンを止めることは多分ない、と思います。
もし、移ろいやすい人間である自分がフェイドアウトした場合は、上記の「それ」、つまりファンである理由や根拠がなくなった時、あるいは浮上できないほど脳が重篤な疲れ方をした時、と解釈いただければと思います。今は幸い、自分が移ろっていくこと自体信じられない、何て恐ろしい、とすら思っていたりするので(^_^;)、当分そのようなことはないと予測されますが。

なお、蛇足ながら、様々な出来事を踏み越えてなおかつファンであり続ける場合の立ち位置も、人によって違っていて一向に構わないと思います。
「ああ、何て素敵なんでしょう!」
「あーあ、いつもしょうがねーなー、でも可愛いから見守ってやるか」
「見ていて納得いかないこともいっぱいあるのに何故か目が離せなくて、気づいたら麻薬化していたんだよね」
「忙しくてどうしてもしばらくご縁が作れないから今は温度低めに保っているけれど、いつかはまた」
のどれもみんな、ひとつの愛の形。これも愛、あれも愛♪という歌がありましたが、みんな「愛」には違いないのですから。