日々記 観劇別館

観劇(主にミュージカル)の感想ブログです。はてなダイアリーから移行しました。

『ポーの一族』ライブ配信(PIA LIVE STREAM)視聴感想(2021.1.23 12:00開演)

キャスト:
エドガー・ポーツネル=明日海りお アラン・トワイライト=千葉雄大 フランク・ポーツネル男爵=小西遼生 ジャン・クリフォード=中村橋之助 シーラ・ポーツネル男爵夫人=夢咲ねね メリーベル綺咲愛里 大老ポー/オルコット大佐=福井晶一 老ハンナ/ブラヴァツキー=涼風真世 ジェイン=能條愛未 レイチェル=純矢ちとせ

相変わらず新型コロナウイルス感染症の流行が収まる気配がないどころか、続々と緊急事態宣言が発令され、じわじわと脅威が身近に迫りつつある2021年1月、皆さまいかがお過ごしでしょうか。

このような状況ですので『オトコ・フタリ』の愛知県刈谷市での大千穐楽参戦もチケット発売前から諦め、自宅から見守る道を選んでおります。

そのような最中に1月11日から無事梅田芸術劇場で開幕した、ミュージカル・ゴシック『ポーの一族』。

『ポー』は今から3年前、2018年3月に宝塚花組初演を映画館にてライブ・ビューイングで視聴しました(当時のブログ記事)。

2月3日からは東京公演も予定されていますし、本音では生でみりお様を拝みたい、しかしこの情勢では劇場に出向くのは躊躇われるし……と思っていた所、ありがたいことに梅芸公演の配信チケットが販売されましたので、自宅で視聴することにしました。

以下、若干加筆はしていますが、視聴しながら都度iPadでメモした内容に基づいた感想です。ネタバレありですのでご注意ください。

 

現代(と言っても原作の「ランプトンは語る」に相当する1960年代)の人々によりエドガーというバンパネラの少年に関する証言や記録が語られる序盤。このお芝居で展開されるエドガーの足跡や、彼が関わる主要な登場人物については大体この序盤で説明されるので、原作未読の観客にも分かりやすくなっている筈です。
この序盤を見て最初に抱いた衝撃は、主役たるエドガーや相手役であるアランに対してではなく、
「老ハンナが「老」じゃない! 颯爽としてカッコ良すぎる!」
というものでした。すみません、涼風さん、還暦とはとても思えない美しさで、しかも普段は基本寝ている相方の代理として、異形の一族の長老役を果たす女性の凜々しさが素敵すぎたので、つい……。
なお、老ハンナはエドガーとメリーベルの兄妹に「おばあちゃん」と呼ばれていますが、よくおとなしくおばあちゃん呼びさせていたものだと思います。

それはさておき。

福井さんの大老ポーも威厳と押し出したっぷりでした。厳めしさ加減では花組初演での一樹千尋さんもなかなか良い雰囲気を醸し出していましたが、それとタメを張る大ボスぶりを発揮していたという印象です。ちなみに大老ポーは1幕の村人襲撃で、老ハンナと異なり完全に消滅した証拠がないのですね。宝塚版の同じ場面ではどうだったか記憶が定かではありません。
ポーツネル男爵を演じる小西さんはマリウスの頃から見ているので、今やこんなに重要な脇を任されるようになったのね、と感慨深いです。声質も若い頃はどこか軽い感じで気になっていましたが、今は全くそんなことはなく聴きやすいです。
ねねさんシーラ。1幕のソロ曲が微妙に音域が合わない気がしました。他の場面では決してそんなことはなかったのですが。シーラという女性の清楚さと妖しさが同居するイメージにはぴったり合っていたと思います。

みりおさんエドガー。普通の人間の少年だった時、バンパネラになりたての時、その後のバンパネラとして老成した時。それぞれで違う表情を見せてくれていて凄いです。
綺咲さんのメリーベル、可憐。エヴァンズ家でエドガーと再会し、一族に加えられる瞬間や血を与えられる場面で2人の間に漂う妖しい雰囲気にどきどき。歌声も綺麗です。
橋之助さんのクリフォード医師。中の人が筋金入りのヅカファンということなので、もう毎日が夢の国なのではないかと想像しています。結末はあれですが。
1幕後半で満を侍して登場したアラン。花組上演時の柚香光さんの印象が強く、今回成人男性が演じて大丈夫? と大変失礼な心配をしていましたが、全くの杞憂でした。高慢でわがままで、無邪気で純粋で繊細な美少年アラン。歌はもう少し伸びしろがありそう、とも思いましたが、多分小池先生は慧眼なのでしょう。
しかし1幕の学校の場面でのあのエドガーの胴上げ……結構高く上がっているので落とさないかと緊張する一方で、エドガーの鳥のような身の軽さあってのことだろう、と感心していました。
1幕ラスト、完全にアランをターゲットとしてロックオンした瞬間のエドガーの妖しい微笑みビームに完全に撃ち抜かれました。
幕間に入ってからしばらくぼうっとしていましたが、はたと気がつき、これではいけない! と、とりあえずトイレに行って気を落ち着けるなどしていました。
そしてなぜかまた、幕間に涼風さんの七変化について思いを巡らせてしまった自分なのです。1幕後半から降霊術師のマダム・ブラヴァツキーとしても登場するのですが、これがまた妖怪度の高すぎるキャラクターでして。老ハンナもブラヴァツキーも、どちらもしっかり涼風色に染め上げていて、妖精度も妖怪度も高いと同時に凛とした佇まいを保っているのはさすがでした。

2幕。
リーベルの可憐さと儚さが序盤から炸裂します。この時はまだ普通の少年であるアランとのバランスがとても良い感じ。
降霊会でのブラヴァツキーの七変化はどんどんエスカレート。いかがわしい風味もあり、老ハンナの静かな威厳とは対照的なコミックリリーフ的役割も果たしていましたが、恐らくは本物の霊能力も有しており、終盤のポーツネル一家の運命について重要な鍵を握っているので、実は侮れない役どころなのでした。
エドガーとアランの対話。ロゼッティのペンダントは捨てない演出になっていたのはなぜでしょう。強烈に仲間を求めて暴走するエドガーと、聖句を口にして必死に抵抗するアラン。この場面での2人の心理合戦が見事で、目を奪われました。
二度目の降霊会での大老ポー召還について。福井さんは降霊会の参加者であるオルコット大佐と二役なので無理とは知りつつも、あれはやはり階上に、声だけでなく福井さん本人に現れてほしかった気がします。なお自分としては、あれは大老ポーが「霊として」降りた訳ではなく、人間界のどこかから降霊の場を借りてリモートで警告したのだろうと解釈しています。

今回心に少しばかり引っかかってきたのは、エドガーのアランに対する「しくじり」を受けてポーツネル男爵が語る、異端を排除しようとする人間の力。舞台では信仰を持つ人間への恐れとして描かれていますが、何となく今の世のコロナ感染にまつわる差別や忌避を連想しぞっとしました。
その後の、ホテルを訪ねてきたアランに対しメリーベルが発する言葉「アラン、私たちと遠くへ行く? 時を超えて遠くまで行く?」からの流れるようなエドガーの誘惑。この場面、原作で1人舞うメリーベルのイメージが採り入れられていてかなり好きです。メリーベルの「(アランには)まだ(人間界への)未練がある」とエドガーのきりきりと胸を締め付けられるような孤独に満ちた絶唱が胸に残っています。

そして運命の日。シーラ、どうしてあれほど大老ポーが言ったのに海に近づいてしまうのか。あと、クリフォード医師、見栄の切り方がやはりどことなく歌舞伎……。
リーベルをお迎えにくるのは老ハンナなのですね。シーラや男爵のお迎えは大老ポー。ここで老ハンナは天上から迎えにきていましたが、大老ポーは地上で「そら見たことか」と見届ける感じだったので、やはり老ハンナがいるのとは全く違う場所にいるのだと思いました。

しかし皆に置いてきぼりにされたエドガーは独り。究極の独りぼっち。アランのお母様(レイチェル)について、息子への執着を口にする一方、気持ちの端のどこかに息子の亡き夫に似た所を嫌悪する心理があることを匂わせる台詞や、息子を見捨てるような台詞が追加されており、追い詰められ絶望度が原作や宝塚版よりも強烈になっているアランとの旅を選んだのは抗いようのない必然の流れであったと思います。
エンディング。原作の『ポーの一族』の巻のラストページ同様にこの時代の2人で終わらせる脚本は秀逸だと思っています。その後の物語、特に最近の続編で明かされている、エドガーとアランがポーの村に入ることなく旅を続ける理由を知ってしまうと、非常に切ないですので……。

観る前は宝塚の幻想的で美しいイメージがあったので、男女混成版での上演にやや不安を抱いていましたが、終わってみると全くそのようなことはなく、これはこれで魅力的な上演版だ、と思います。特にアンサンブルについては、自分は男女混成版の力強さの方がむしろ好みです。また、今回のカンパニーには、演出が宝塚歌劇団所属でもある小池先生であったこともあり、意図的に女性プリンシパルキャストの大半が宝塚出身者となっていたので、それで初演のイメージからあまり逸脱しなかった所があるのかも知れません。

ところでカーテンコールでのみりおさんと千葉さんのトークタイム。あれはもしや「癒しタイム」なのでしょうか。
「もし『ポー』で他の役をやるならどれ?」という質問に対する千葉さんの答え「恐れ多いですがメリーベル」もなかなかでしたが、みりおさんの「シーラになって涼風さんにエナジーを送り込まれたい」と「マーゴットになってアランに人殺しー! と叫びたい」という答えを聞いてかなりのなごみエナジーが心に注入されました。