日々記 観劇別館

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『頭痛肩こり樋口一葉』感想(2013.7.20ソワレ)

キャスト:
樋口多喜=三田和代 樋口夏子=小泉今日子 樋口邦子=深谷美歩 稲葉鑛=愛華みれ 中野八重=熊谷真実 花螢=若村麻由美

二都物語』の感想に予想外に手こずった上、本業に圧迫されなかなか書けずにいましたが、二都と同じ日のソワレでこまつ座の『頭痛肩こり樋口一葉』を観てまいりましたので、そちらについても感想を記します。

初めに、キョンキョンの舞台は初見でしたが、どこか発声が生粋の舞台育ちの人とは違うなあ、と思いました。滑舌も良く声も十分届いており、どこが違う?と言われると上手く答えられないのだけれど、確実に何かが違いました。
この戯曲における樋口一葉こと夏子は、次々に逆境に見舞われる中でも全くめげることがないのですね。キョンキョン、常に前を向き、女性としての生の証を筆力に託す夏子の生き方がしっくりはまっていました。朝ドラ『あまちゃん』のヒロインの母親役でも感じていたのですが、キョンキョンには文字をしたためる姿が、何故かとても良く似合います。

夏子という人物は、強いが故に、一番言いたいことやもがき苦しむ弱音は心の内にしまって母親や妹にはなかなか明かさないのですが、そんな夏子の本音の言葉を引き出す幽霊花螢を演じるのが若村さん。若村さん、軽やかにふわりと生と死の狭間を漂っていて、その上美しかったです。しかも登場する度に、気づけば場の雰囲気をさらっていて、正に「恐ろしい子!」のフレーズがぴったりでした。
この戯曲の作者は、天皇制に対し非常に辛辣な立場を取っていて、物語のハイライトの1つである花螢の仇捜しの結果にも、そんな作者の皮肉がたっぷり込められているのですが、若村花螢、その辺りの台詞を実に柔らかにさらりとこなしていました。これは戯曲自体の作り込みの見事さでもあると思います。もし生者の、しかも男性がああいう台詞を口にしていたなら、とてもあんな風に柔らかく落とせないのではないでしょうか。
あとこれはごく個人的な印象ですが、生者より死者に近い心根の人間にしか見えない「死」という花螢の設定や、「死」による安らぎに心を添わせつつ、より納得の行く「生」を全うすることに執着する夏子の人物像に、少しだけ『エリザベート』を連想しました。
もちろん、花螢はあくまで幽霊であって、トートのように「死」そのものの存在というわけではありませんし、夏子はお姫様ではなく士族とは名ばかりの貧しい娘である上、物語の最初からとっくに自我に目覚めているわけですが。

夏子の母上は三田和代さん。昔々、新人の山口祐一郎さんと共演して「あなた、お芝居はへただけれど、交流(アイ・コンタクトの意)だけはいいわね」と言葉をかけたというエピソードをちらりと思い出しましたが、それはさておき。
昔々、この戯曲を本で読んだ時には、母上のことは単純に「因習に縛られエゴを増幅させた可哀想な人」という印象を抱いていました。しかし、その母上を今回、頭が古くて身勝手だけれど可愛らしく無邪気で、娘達への愛情に満ちた人物として温かく見つめることができたのは、三田さんという巧みな依り代の存在故であると思います。

夏子の妹・邦子役、深谷さんは、今回のキャストの中で唯一、お名前もお芝居も初めて観ました。姉を心から敬愛し支える、元気な縁の下の力持ち的存在の邦子を、溢れる生命力で演じられていたと思います。
これは同行の友人から聞いたのですが、実在の邦子も、天才的な姉を生涯に渡って影のように支え、死後も一葉の作品を守り世に出すことに尽力した人物であったとのことです。モーツァルトと言い、ゴッホと言い、宮沢賢治と言い、早世の天才に、その活動を評価し生前・死後に渡り支える兄弟姉妹が寄り添っている事例は結構多くて、ああ、萌えるシチュエーションだねえ、という感じの結論になったわけですが(^_^)。

鑛さんと八重さんのエピソードは、戯曲をテキストで読んだ時の記憶はあまりありません。恐らく、ストーリー上メインの柱となるのはあくまで夏子と花螢なので記憶から切り捨ててしまったのだと思われます。
しかし、今回改めて見て、この2人、面白い!と思いました。夏子一家だけでは重くなりがちな物語を笑いと涙で豊かに彩る存在でありつつ、一葉作品に現れる女性達を投影した、明治中期(19世紀末)の女性の様々な生きづらさの塊のような存在でもあり。凛と逞しい愛華さんの鑛、健気に尽くす熊谷さんの八重が、ともにその美点を保ちつつ、不運の中で壊れていくさまが何とも哀しいと同時に愛しかったです。
そして、女所帯である樋口家の仏間が、そうした女性達に束の間の安らぎをもたらす不思議な空間になっているのもまた面白かったです。そういう空間だからこそ花螢も、もちろん夏子の魂に「呼ばれた」のもありますが、何やかやで毎年毎年出没したに違いない、と想像しています。

最後に、これは若干ラストのネタバレになりますが、登場人物の大半が「生」、具体的には明治の女性として生きることの呪縛から解放され、「死」によって安らぎを得ます。しかし、彼女らは成仏はせず、ひたすら生と死の狭間にふわふわと漂い続けています。これは、生者の世界にも黄泉の世界にも属さず、決して縛られることのない魂の自由、ということなのでしょうか。そしてそうした魂の境地を決して十分に理解できているわけではないにも関わらず、そうした魂として漂う彼女らに羨望の思いを抱いてしまうのは、どうしてなのでしょう。
しかも、彼女らに羨望を抱く一方で、1人きりで地に足を踏ん張り重い荷物を背負いつつ生きる、力強い生命の象徴である邦子にも勇気づけられる自分がいました。
現世から解放された魂の自由に心惹かれつつ、丸ごと生を肯定し、賞賛したくなるこの作品、やはり傑作だと思います。リピートするには若干見応えがあり過ぎますが(汗)。