日々記 観劇別館

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『レベッカ』感想(2010.4.20マチネ) : レベッカの「影」について

先日、レベッカの「影」の原作小説と舞台での扱いの違いについて、友人達とツイッターで軽い議論になりました。
「影」と言っても、今年の日本版舞台に登場するアレのことではなく、マンダレイの屋敷中や関わる人々の中に息づいていて、ヒロイン「わたし」を責めさいなみ、ヒロインを妄想マシーンと化させる、概念としての「影」についてです。原作では、それこそ認知症の老人(マキシムのお祖母様、だったかな?)の数少ない正気の記憶にまで美しい虚像を染みこませるわ、マキシム本人が絶対許可していないと思われるのに、彼を自分だけの渾名で呼んで囲い込むわ、とやりたい放題だった「影」さんですが、舞台ではそこまで強烈に存在感を主張していません。「影」の存在感を減らすなら、いっそ影絵で登場してくれ、という意見とか*1、いや、出てこない分役者の演技で不在のレベッカを出現させてほしいとか*2、そういう意見が飛び交ったのでした。

そんな議論の後だったので、それじゃあ、舞台におけるレベッカの「影」って一体何?と考えながら今日の舞台を観ることになりました。なので、今日の舞台そのものの感想は後にして、「影」について考えたことをつらつら書きたいと思います。やや長文となる上、とことん主観的で「意見には個人差があります」な内容ですので、途中で挫折される方もいらっしゃるかとお察ししますが、ご容赦ください。
あと、映画版『レベッカ』にはまた原作と舞台どちらにもない演出が存在しますが、それに言及するとややこしくなるのでここでは省きます。


本日の『レベッカ』の舞台を、レベッカの「影」を意識しつつ観ていて、原作とは改めて別物だと確信しました。
まず、舞台のヒロインが恐怖を覚えているのは屋敷内に息づくレベッカの「影」というか、魂の残り火そのものではありません。レベッカに何らかの形で囚われ束縛されている、屋敷に暮らす人々の心に怯えているのだと思います。しかも生前のレベッカに会ったことのないヒロインは、彼女の具体的イメージを全く持たない上、身分不相応な上流社会に放り込まれたために、夫を含む自分には正体の知れないものに執着している人々の真意を読むことができないわけで、これは相当に恐ろしい状況だと思われます。

一方、ヒロインも「マキシムが忘れられないほどに美しく素敵だったレベッカ」という「影」を心の中に作り上げているのだけれど、これは決してマキシムやミセス・ダンヴァースのレベッカ像と重なることがありません。ましてやマキシムなどは、妻がそんな「影」を作り出しているなんて夢にも思っていないわけで。その態度を観客として見るにつけ、ああ、男だなあ、と納得するとともに、1幕のラスト他であまりに自分のことしか考えていない癇癪を起こしたりしているのが、非常に腹立たしかったりするわけですが。
しかし、ダンヴァースは自分の巧みな誘導により、ヒロインがレベッカ像を膨らませていることは理解していて、だから2幕序盤まではヒロインより優位に立っています。いわば被害者、ではなく、ヒロインの最大の理解者でありながら、最大の敵という恐ろしい存在です。それ故にミセス・ド・ウィンターの座に取って代わろうとする者に激しい憤りを込め、般若の形相で火を吹きながら(これはシルビアダンヴァース限定の演技ですが(^_^;))、ヒロインをあれ程効果的に追い詰めることができるのでしょう。

もっとも、死者の「影」ばかり気にしていたヒロインが、マキシムという生者の確固たる愛と信頼、ついでに「2人だけの秘密」も得て、「影」に惑わされなくなることはダンヴァースの計算外の出来事でした。キューピット像を壊された瞬間、涼風・シルビアどちらのダンヴァースも、まさに仮面にひび割れが入ったような激しい動揺ぶりを見せ、哀れさを醸し出しています。この場面で立ち去りながら破片を片付ける際に、涼風ダンヴァースは頬に破片をそっと当てたりなどしているので、哀れさが倍増するのですが。
この時点でレベッカの「影」はかなり駆逐されたようにも見えますが、実はそうではなく、まだダンヴァースの心には「男を軽蔑して当てにせず、ただ1つの例外を除き怖い物なしで生きたレベッカ」、また、ファヴェルの心にも「背徳者だが本当は自分を一番愛してくれたレベッカ」という「影」が生きています。これらの「影」は、その後の展開における新事実の判明により、全て崩壊させられたかのように見えます。

ところが、実は崩壊させられたのは、彼らや他の人物が自らの心に形作ったレベッカの「影」に対してそれぞれ勝手に抱いていた思いであって、レベッカという人間の真実は、本当の所は終幕に至っても、誰一人何一つ分かっていないのです。皆、自分だけが真実を知っている、と思っていたのに、全くそうではありませんでした。
だからダンヴァースは、自分の信じていた影を焼き尽くすことで永遠の物とし(あるいは自分を裏切った現実を無とすることで、この世に実体を持たない「影」を有とし)、自らも影の運命に殉じたのだ……というのはこれまた観客である私の勝手な妄想です。

しかし、「影」が焼き尽くされようと、生者の苦い記憶として残ろうと、「影」に殉じなかった者は当然ながら自らの生を全うしなければならないのですね。生きるということは、即ち生に縛られるということで。では、『レベッカ』で神の道に背いてまで生き残る選択をしたド・ウィンター夫妻は、その選択を後悔したか?と申しますと、決してそうではなかったと思います。彼らは神の国へは行けなかったとしても、互いの強い愛情と深い信頼の下に結び付きあい生を全うしたのではないでしょうか。それは別の見方をすれば互いを縛りあった関係でもあり、多分これが皇后エリザベート辺りなら、この種の人間関係を拒絶し家出してるだろう、という気もします。
でも、きっとあの夫妻の場合、束縛という意識はどこにもなかったのではないかと思います。むしろ、マンダレイレベッカという、この上もなく美しいがあまりに息苦しい束縛であった過去を、贖罪の意識とともに尊びつつ、判を押したように平穏ではあるものの、互いが離れることのない日々を大切にして過ごしたに違いない、と私は考えます。

じゃあファヴェルと「影」との関係はその後どうなったんだろう?という疑問もわいてきますが、彼の場合、ほろ苦くも忘れられない美しい思い出として、上手に心の奥底に沈め、ささやかな野望のためにちょろちょろと上流社会から裏社会までを泳ぎ回って、逞しく生き延びている姿しか思いつきません(^_^;)。見えない「影」などに囚われているより目の前の儲け話の方を大事にしていそうな気がします。それもまた、人間の生き方として十分「あり」ではないでしょうか。

結論。本当に怖いのはレベッカの「影」ではなく、それに呪縛された人の心。「影」に呪縛され続けるも、乗り越え克服するも、「影」と心中するも、共存するも、決めるのはその人自身。乗り越えるには時に他者と強い愛情と信頼で結ばれることも必要。こんな所でしょうか。

ここまで色々書きましたが、何やかやで、ベタ甘な恋愛、ホラー、ミステリー、サスペンスという性質の異なる要素をくまなく盛り込んだ原作小説が、やはり最も偉大なのでしょう。それでも、その原作の構成要素を容赦なく削ぎ落とし、しかも台詞だけでなく素敵な音楽も付けて再構成するという、考えてみると相当に思い切ったことをした舞台版の面白さも、これまた否定されるべきものではない、と思うのです。それぞれのメディアでのレベッカの「影」の表現についても同様です。

なお、「『レベッカ』の原作で感動し、または恐れおののいたあの描写が舞台にはない」というのは、自分にもたくさん覚えがあります。でも自分には不特定多数の人にお見せできる「私の『レベッカ』」を作る能力は、残念ながらありません。だから、既にある作品に想像や妄想を上乗せして、じっくり楽しむに留めさせていただきます。

*1:私は実際に舞台に現れるあの白い幻影ですら不要と思ってしまっていますが。

*2:いや、キャストの皆さん、もちろんそうすべく頑張ってらっしゃるとは思いますが、北島マヤではないので限界はあるかと……。