日々記 観劇別館

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映画『ジーザス・クライスト=スーパースター』簡単感想

木曜日、JCSの映画版が21時からNHK BS-2で放映されるというのは聞いていましたが、仕事の帰りに実家に寄って夕食をご馳走になり、珍しく晩酌して(私はアルコールを中途半端にしか分解できない下戸です)ふぅ、と落ち着いて気づいたら21:30を過ぎてました。とりあえず、30分遅れで鑑賞。ちょうど♪ホーザナ、ヘイザナ のジーザスを讃える場面の途中あたりだったかと思います。

主演のテッド・ニーリーは綺麗なジーザスでした。ユダ*1がアフリカ系、マグダラのマリアがアジア系*2という民族・人種入り混じり状態なのが、映画の作られた1970年代前半という時代を象徴してると思いました。
マリアが美人じゃない*3のがまたリアルで良かったです。「私はイエスがわからない」の切々としたヴォーカルが胸を打ちました。
あと、カヤパの渋い低音が魅力(笑)のヴォーカルは、舞台でも映画でも共通なのだと分かりました。

四季のJCSを観た時はユダのジーザスへの屈折した妖しい愛情が強烈に伝わってきましたが、映画では屈折した愛ではあるものの、そんなに妖しくはなかったです。ユダが濃いのは一緒でしたが(^_^)。むしろピラト総督vsジーザスの、助かるチャンスを与えているのに民衆は裏切るし、ジーザス自身がピラトと相容れることを望んでいないしで、ピラトがむち打ちを宣告、ジーザスが打たれる場面の方が妖しかったような気がします。
映画ならではの演出の妙を覚えたのは、ユダの心境を迫り来る戦車や上空を飛び去る戦闘機でイメージする場面。あと、ジーザスのソロ「ゲッセマネの園」の♪見てくれ私の死にざま に数々の聖画の磔場面が次々にモンタージュされる場面でした。ゲッセマネではジーザスが崖をよじ登ったりと屋外の広い空間をフル活用してて、これは舞台ではできないなー、と思いつつ観てました。
ラストシーンは、磔にされたジーザスが死を迎え、日が暮れるまでは一緒でしたが、映画では日暮れとともにキャスト全員がロケバスに乗って砂漠を去っていくというのがラストで、これはこれで面白かったです。私は見損ねましたが、キャストがロケバスで砂漠に降り立つというのが映画のプロローグだったそうですね。

映画を見終えて思ったのは、四季上演版のJCSってジャポネスク Ver.にしてもエルサレム Ver.にしても、実に観客フレンドリーに作られているということでした。特にジャポネスクの歌舞伎風メイクや網っぽい衣装なんて、一見前衛的でフレンドリーになるのを避けているようだけど、あれによって時代を超越した世界を観客に提供することには成功していると感じられました。
ただ、逆に、リアルタイムの時代の空気感を上手いこと切り取っているのは映画版の方だな、という感想も抱きました。ジーザスを囲む使徒達なんて、もろヒッピーのコミューンのイメージでしたし。餅は餅屋、ではありませんが、リアルタイムの風俗をてらいもなく体現できるのは、やっぱりその時代にリアルに生きていた人達ならではだと思います*4

もう一つおまけ。四季の舞台のジーザスは、引きずられてムチ打たれ、十字架を背負い、最後には舞台の真ん中で傷だらけになった*5ほとんど裸の肉体を晒して*6磔にされ、釘を打たれた両の掌からは血がしたたり落ちているというもの凄い状態でラストシーンに突入するわけですが、映画のジーザス及び演じるテッドさんの肉体にはそういう生々しい切迫感はありませんでした。生の役者の肉体の迫力には、やはりどこか映画は及ばないのか、と感じた次第です。ただ、テッドジーザスのムチ打たれる時の表情や、磔の時の苦悶する顔は実に色っぽかったと思います。ああいう表情を収められたのは、映画監督&カメラマンの力量あってこそでしょうね、きっと。

*1:補足その1。演じたのはカール・アンダーソンという方です。既に2004年に他界されたとか(;_;)。

*2:補足その2。演じたイヴォンヌ・エリマンはこちらのサイトによれば、日系・中国系・アイリッシュ系の血を引いたハワイアンだそうです。

*3:あくまで日本人視点で。欧米人視点だとまた違う筈。

*4:補足その3。WikipediaのJCSの項目によれば、監督自身は「歴史劇でもなければ現代劇でもない、いつの時代にも通じる超時間的な作品を造りたかった」らしく、だから役者のコスチュームはあえて現代風にしなかったようです。でも時間を超える手段としてあの演出が正解だったかは、私的には少々疑問。

*5:もちろん本当に傷が付いてるわけではありませんが。

*6:山口ジーザスの舞台写真に残されている20〜30代の頃の身体が本当綺麗で……というのはここで言う話ではありませんね(^_^;)。