日々記 観劇別館

観劇(主にミュージカル)の感想ブログです。はてなダイアリーから移行しました。

『マディソン郡の橋』プレビュー初日感想(2幕編・軽いネタバレあり)(2018.2.24マチネ)

マディソン郡の橋』プレビュー初日感想初日、2幕目の感想です。(リンク:1幕目の感想

感想では、2幕の結末など核心に触れるネタバレは避けますが、どうしても細部に触れている箇所があります。また、プレビューと本公演では異なる部分が出てくると思われますので、ご注意ください。

1幕の最後で親密な関係になったロバートとフラニー。2幕の序盤は翌朝で「事後」なのですが、なぜかロバートはお着替え終了、上から下まできっちりと着込んでおりました。まあ、そこでパンツ一丁などになられていても、逆に「祐一郎さんどうしたんですかー!」という絶叫をこらえて心臓に悪そうですが(^_^;)。
とりあえずこの辺りのフラニーが恥じらいもまた艶っぽく、といった風情で綺麗でした。カマトトになってないよ、さすが妖怪涼風さんだよ!(しつこい)な心持ちで眺めていました。

そして、ロバートにコーヒーなど淹れてもらいながら語り合う2人の台詞の「声だけ」が流れる場面があるのですが、この場面が、本当に他愛ない会話なのに、姿が見えないというだけで何とも艶っぽくて、しかも声が山口さんと涼風さんの素敵な声ときているので、実に良かったです。もし歌以外の台詞も入ったCDなどが発売されたら(望み薄な気がしますが)、このパートの音源だけ延々と流して聴いていたいぐらいです。

この2人の過ごす時間というのはとても濃密で暖かく幸福に描かれていて、それだけに「終わりが来る」と知って観ているととても辛くなりますし、実際にその幕切れはとてももどかしくもあっけなく、切ないものでした。
もちろん、突発的事態も重なった流れとは言え、最終的に家族を選ぶフラニーだからこそロバートは愛したのですし、フラニーにとっても自分の家族は、諸々の苦しみの末にようやく手に入れたかけがえのない存在であるとロバートも(そして観客も)理解しているので、「こうするしかなかった」のだとは分かります。
また、ロバートが現れ、彼と短い間とはいえ身も心も分かり合えたからこそ、フラニーはこれまで歩んできた道とともに、自らが選んだその後の道も合わせ、丸ごと自らの人生を肯定することができて、それは本当に幸せなことだったとも思います。
ただ、なんかロバートが報われないなあ、とは感じました。ううむ、でも、物理的に離れていても、生涯ロバートの心にはフラニーが棲んでいただろうし、それはそれで良かったのでしょうか。複雑です。

というわけで休憩時間も含め約3時間の舞台が終演しました。
初日とは言えプレビューなのでカーテンコールでのキャスト挨拶などはないのかな? と思っていましたが、何と山口さんの仕切りでご挨拶が始まり、びっくりしました。
ご挨拶は禅さんと涼風さんから一言ずつ。
禅さんは、「涼風さんと5回目の結婚*1で一番幸せだったと思う。知らないということは幸せなことです」というようなことを仰っていました。
涼風さんは、「また、観にいらしてください」と仰っていたような気がします(細部ど忘れ)。
そして山口さんからは、「皆さんに笑っていただけたようでありがとうございます。皆さんとひとときを過ごせて幸せです」というコメントが。しまった、1幕で迷いつつ笑ってしまった(^_^;)。
山口さんの場合はコメントの内容よりも、カーテンコールで一人一人キャストの背中を前に押し出す、などの気遣いが印象的なのです。
というわけで、本番の舞台ががぜん楽しみになりました。チケットが意外に激戦なのと個人的事情で、2.5回ぐらいしか観られそうにないのですが、じっくり堪能したいと思います。

*1:エリザベート、M.A.、ロミジュリ、回転木馬は思いつきましたがあと1回が分かりませんでした。←補足。「今回で5回目」なので過去は4回で合ってましたね(^_^;)。

『マディソン郡の橋』プレビュー初日感想(1幕編・ネタバレあり)(2018.2.24マチネ)

キャスト:ロバート=山口祐一郎 フランチェスカ涼風真世 マリアン=彩乃かなみ マイケル=石川新太 キャロライン=島田彩 チャーリー=戸井勝海 マージ=伊東弘美 バド=石川禅 others=加賀谷一肇

待ち望んだ『マディソン郡の橋』プレビュー初日(シアター1010)を見てまいりました。
自宅から比較的北千住は近いので、いつもここでやってくれないかなー、と思いつつ劇場に向かう途中、『レベッカ』再演の報が入り驚喜。1010でもプレビュー公演を行うということでロビーにチラシが置かれていました。

『橋』は原作未読、映画も未見なので、「僅か4日間、カメラマンと農婦の一生分の本気の生涯秘密の恋」という雑なあらすじと、「映画ではイーストウッドとストリープが演じた」というデータしか知らない状態で観劇に望みました。

以下の感想ですが、1幕をだいぶネタバレしてます。未見の方はご注意ください。
長文なので、2幕は別記事にします。そちらでは核心に触れるネタバレは避けるつもりです。

涼風さんの冒頭のソロは若干歌詞が聞き取りづらい所がありましたが、戦争に負けた国の女の子が覚悟の上故郷を後にして戦勝国の兵士に嫁ぎ、海を渡り嫁ぎ先に着いてみたら広大なトウモロコシ畑が広がるど田舎だった、そこでただ日々を必死に生きてきた、というポイントは理解しました。

そこから観客はアメリカの畜産農家、しかもこれから親子3人で大事に肥育した牛を品評会にかけるために出かけるというのに、頑固親父バドと難しい年頃の子供達との間で何やら殺伐と言い合いになってしまっている現場に突如放り込まれます。
ちょっとここ、がちゃがちゃとやかましいんですが、禅さんの、アメリカの荒々しい軍隊帰りの頑固親父(でも奥さん大好き。束縛などではなく、ただシンプルに大好き。)という貴重な役どころが見られますし、フランチェスカ(通称フラニー)がこれから経験するとても非日常的な時間との対比という意味での普段生きている日常の紹介ですので、少しだけ我慢です。

ラニーの非日常への扉を開ける存在となるカメラマンのロバートは、この地方での最後の撮影ポイント、屋根のある橋(ローズマン・ブリッジ)を見つけられずさ迷う旅人として登場します。
ラニーが案内を申し出てドライブしている時の、他人行儀な会話から、ロバートがふとフラニーの故郷ナポリの話をした瞬間からフラニーの心の何かが揺らぎ始めるまでの2人の応酬が絶妙です。

目ざといお隣の奥さんマージが、一見妻の言動に無関心な夫のチャーリーとシットコム的なコントを繰り広げながらよそ者を気にしたり、旅先からバドや子供達がワーワーギャーギャー電話をかけてきたりする割には、ロバート、すんなりといい感じにフラニーの家にお邪魔して、2日ぐらいかけて徐々に打ち解けていきます。
不思議と言えば不思議ですが、この辺りは細かいことに突っ込んだら負けのような気がしたので、早々にあまり気にしないことにしました。

そして何故か、ロバートがまだ打ち解けなくてフラニーの前でぎくしゃくと振る舞っている場面の所々で客席から笑い声が。確かに長身の山口さんが長い手足をおたおたさせている姿が何だかコミカルで、どこか「素の姿」も連想させるような感じで面白かったのですが、ここは笑って良かったんだろうか(^_^;)。

1幕では話が色々な時間軸に結構目まぐるしく飛びます。
一見頑固で口数少ないバドが困窮した農家仲間に見せた気遣いと助け合いの心のエピソード。
バートの回想として示されつつも相手マリアンの視点の言葉(歌)として語られる、互いの孤独をついに分かり合えないまま決裂してしまった最初の結婚のこと。
そしてフラニーがこれまで誰にも語ってこなかった、戦火により故郷で失ったものと、ロバートのおかげで知ることのできた思いがけず変わらぬ故郷のこと。
これらのエピソードの周到な積み重ねにより、全く異なる人生を送ってきた2人が、心に封じ込めてきた孤独を解き放った時に強く惹かれ合ったのは必然である、という説得力のある展開になっていました。

そして何と言っても涼風フラニーが美しい!
途中から、序盤からまとっていた白シャツにジーンズを脱いで、さわやかおしゃれなワンピースに着替えるのですが、このワンピ姿が本当に可愛らしく、さすが妖怪、抜かりがないぜ! と本気で恐れ入っていました。

で、1幕の終盤に至っていよいよロバートとフラニーが親密な関係になるわけですが……。
ラジオから甘いダンスナンバーが流れ、惜しい所で電話が来て一旦中断するなど一呼吸入れつつ、2人の演技だけでなく歌声(曲名:Falling into you)が確実に艶を増して濃密になっていくのを緊張しながら見守っていたので、かなり呼吸困難気味になりました。
いや、普通のその辺にいそうな現代人の役で*1、元恋人に死を望まれも恋人の身代わりで監禁もされず普通に「大人の」恋に落ちる役の山口さんというのはかなりレアでしたのでつい(^_^;)。

ちょっと長くなりましたので、次の記事に続きます。

*1:美形で流れ者で天涯孤独のカメラマンは普通にその辺にはいないと思いますが、ほぼ現代に近い時代に生きるホモ・サピエンスという意味です。

『ブロードウェイと銃弾』感想(2018.2.17マチネ)

キャスト:デビッド=浦井健治 チーチ=城田優 オリーブ=平野綾 イーデン=保坂知寿 エレン=愛加あゆ ニック=ブラザートム ワーナー=鈴木壮麻 ヘレン=前田美波里 ジュリアン=加治将樹 シェルドン=青山航士

日生劇場で上演中のミュージカル『ブロードウェイと銃弾』を観てまいりました。映画版は観たことがないので、ストーリーへの予備知識なしでの観劇でした。以下、2幕の重要な展開に関するネタバレは回避しますが、それ以外の軽いネタバレはあるかも知れませんので、ご容赦ください。

福田雄一さんの演出は好みが分かれそうですし、作品によっては、この笑いは観客をわざといたたまれなく(または寒く)するためにやってるんだろうか? と疑いたくなる時もありますが、少なくとも私は時折爆笑し、時折ぞっとしながら最後まで面白く観ることができました。
これはオリジナルの舞台にあったものなのかどうか分かりませんが、マシンガンの音と共に弾痕として表示されるメインタイトルとか、「チーチださん? いや、トートさん?」などの台詞のお遊び*1とか、そして終盤の回り舞台での追いかけっことか、ちょっとした味付けが楽しいのです。

歌の上手いメインキャストが揃っているミュージカルはやはり良いですね。
ただ、知寿さんと壮麻さん、特に知寿さんは、それぞれに見せ場こそあるものの、かなりもったいない使われ方をしていると思いました。もっとも、劇場で買った雑誌『fabulous stage』の福田さんインタビューによれば知寿さんは既に福田ファミリー扱いのようなので、厚い信頼あっての起用と思われます。
また、ニック親分を演じていたブラザートムさんは若干他のキャストと方向性が違うかも? と観る前は思っていましたが、実際には全くそんなことはなかったです。やや歌詞が聴き取りづらい箇所こそありましたが。この物語の諸悪の根源であり、最も冷酷な登場人物でありながら、どこか憎めないトムさんのニックなのでした。

浦井くんの脚本家デビッドは、表情と言い立ち居振る舞いと言い、期待どおりに仕上がっていました。
デビッドは芸術への妥協を良しとしないかなり面倒くさそうな馬鹿強情でありつつ、純粋な性格であるがゆえに周囲に振り回され引きずられてしまうのですが、どんなにダメで情けない行動を取っても一貫して「それでも人間についても芸術についても、それらの素晴らしさを信じている、愛すべき善人」として舞台に居続けるのは、決して脚本や演出の力だけでなく、演じる浦井くんの力があってこそと思いました。
愛加あゆさんとのカップルも、作中では途中で微妙な展開になりますが息が合っていて良い雰囲気です。愛加エレン、特に2幕のソロでは相当際どい歌詞がありますが、堂々と歌い上げていて好感が持てました。

城田くんは器用さや容貌の良さを前面に出した役どころよりは、今回の副主人公であるギャングのチーチのようなストイックに攻める、スケベでないむっつり系の役どころの方がしっくりくるように思います。なので個人的にはオリーブのモノマネとかはなくても良いぐらいです。
なお、モノマネ自体は、実に特徴を捉えていてそっくりで笑わせてもらいました。

平野オリーブはとにかく存在感が強烈でした。お下劣もおバカもどんとこいな感じで、アニメ声できゃんきゃんと歌い踊り、喋りまくって前半の笑いを独占していました。
オリーブにもう少しだけ頭脳があって、あの色気と押しの強さと強烈な個性がプラスに働きさえすればもっとましな人生が待っていたと思うのですが、それらが全部マイナスに働いてしまったためにあらぬ方面から悲劇が訪れてしまったのは、何とも皮肉なことです。

美波里さんのヘレン。実はチラシなどのあらすじで見た時にはもっとイヤな感じのキャラクターだと想像していましたが、全くそうではなく、むしろ逆でした。
もちろん彼女は精神的な問題を山ほど抱えていて、デビッドもずるずるとそれに巻き込まれてしまうわけですが。自分は付き合った男性達の人間性ではなく芸術の才能を愛してきた(デビッドはその才能に該当しないから本当の恋ではなかった)と言いつつ、多分本当は花を贈ってくれた相手の人間性に惹かれていたに違いない、と匂わせてくれる、意外と切ない役どころでした。

以下は物語全体を通しての感想です。

芸術家仲間との小さなコミュニティでプライドだけは高く頑なに生きてきたデビッドは、思いもかけず魑魅魍魎が跋扈する華やかな世界に身を投じた結果、チーチとの一連の出来事を通して、誰も望まなかった大変皮肉な形で、芸術家に時に求められる非情さと、平凡であるからこそのささやかな幸せとを悟ることになりました。

では、チーチの才能あってこその自分であったと率直に彼をリスペクトするデビッドが、おとなしく舞台から距離を置いた普通の世界に帰れたか? については疑問です。
あの生存競争が厳しい一方で作品を作り上げる愉しさにも満ちた世界からは、結局離れられないようにも思えてなりません。

また、この物語には、良いお芝居はもちろん良い脚本や演出あってのものだが、決して脚本家や演出家だけの作品ではなく、役者、舞台スタッフら皆で作り上げるものということを忘れるな、という痛烈な戒めが込められていると受け止めています。
恐らく脚本家や演出家は、時に大変エゴイスティックで非情であり、作品の成立に本気で邪魔な役者に殺意を抱くこともあるに違いない、と想像しています。しかしそこで「それはダメだ」と踏みとどまるひとかけらの良心を忘れないことが、結局は人の心を掴む舞台に結び付く筈であると、クリエイターではない一観客としては信じたいところなのです。

*1:これはさすがに日本版のみと思いますが(^_^;)。

『ペール・ギュント』感想(2017.12.10マチネ)

キャスト:
ペール・ギュント浦井健治 オーセ=マルシア ソールヴェイ=趣里 万里紗 莉奈 梅村綾子 辻田暁 岡崎さつき 浅野雅博 石橋徹郎 碓井将大 古河耕史 いわいのふ健 今津雅晴 チョウ・ヨンホ キム・デジン イ・ファジョン キム・ボムジン ソ・ドンオ ユン・ダギョン

世田谷パブリックシアターで上演中の『ペール・ギュント』を観に行ってまいりました。
グリーグの『ペール・ギュント』は昔義務教育の音楽の時間に聴いたなあ、主人公は流浪の生涯を送って、その途中でお母さんが亡くなって、最後は恋人に看取られて、杖に緑の芽が生えて罪が赦されるのよね、と思ってましたがよく考えたら最後の「杖に緑の芽」は『タンホイザー』のオチだったと後から気づきました(^_^;)。
だってどちらも美女を放置するさすらい人の物語じゃないか! と言うのは言い訳に過ぎませんが、自分の脳内で絶妙に2つの物語がミックスされていたようです。

かような程度のイメージしか『ペール・ギュント』には抱いていなかったので、今回の公演を観て、まさか主人公の性格がこんなにも人でなしで、こんなにも辛辣で冷徹な視点で描かれていたなんて! と大変驚かされました。

自分はついお芝居の登場人物に共感できる箇所を探してしまうのですが、浦井くん演じる主人公のペールはなかなかに共感しづらい人物です。ここにいる今の自分ではない違う自分を常に探し続ける一方で、トロールの王様に言われた「己に満足する」という言葉を忘れずにいます。それでいて、いくら身から出た錆で故郷に留まれない事情があるとは言え、老いた母親や純粋な恋人を置き去りにして、世界を股に浮き沈み人生を送り続けるという矛盾だらけの人物なので、観ていてこの人物に肩入れするのは難しいものがあります。

終盤でペールは、ボタン職人を名乗る謎の人物(死神の一種?)から善人でも罪人でもどちらでもない中庸の人間として、柄杓の中でその他大勢として煮溶かしてボタンに鋳造してしまうぞ、と宣告されて激しく動揺します。そして何とか自分が善人・悪人のいずれかであることを証明しようと、必死にあがき続けるのです。
多くの人間はどこかで「自分だけは普通ではなく特別」と思い込みがちなのでこれは本当痛烈な皮肉だな、と恐れ入りましたが、ペールについては正直、
「おお、あんなに神様と恋人をひたむきに信じて待ち続けている女性を放置してふらふらしているような男は、さっさと溶かされてしまえ」
と思いました。

ただ、ペールというのは他方で、どんなに酒池肉林に溺れ爛れた生活や堕落し環境に押し流されているかのような生活を送ろうと、常に理性的に自らのファンタジックな運命に対峙し続けているという、不思議な魅力を持った人間でもあります。見た目は獣のようなトロール達の内面が「さほど人間と変わらない」ことを見抜いていますし。こういう人が「中庸」だったら、ほとんどの人間は間違いなく「その他大勢」であるどころか、もしかしたらボタンにすらなれないのではないでしょうか。そんなことを考えました。

なおこの作品の演出は、ファンタジックで少々下世話で露悪的な*1世界観でありつつ、徹底的に綺麗事や中途半端な救済が排除された造りになっていたと思います。こういう演出手法が好みか? と問われると、首を縦に振ることはできません。演出家の頭の良さ加減が前面に押し出されていて、同時に観る側にもある程度の鑑賞眼と知性を要求するような、それでいてどぎつく賑やかに攻めてくる演出は、観ていて結構疲れてしまうのです。
キャストに関しては、ペールとオーセ(ペールの母)とソールヴェイ(ペールの恋人)の3人のキャストを除いては複数の役を演じており、しかもどの役も物語上等しく重みづけがなされていました。日韓両国のメンバーともにハイレベルであったと思います。好みは別として、上記のような少し捻りの入った世界観を、肉体、精神をフル稼働させてアートとして体現できる役者さんばかりで、圧倒されました。

今回のような演目は、観る側も精神を研ぎ澄まさなければついていけないところがありますので、リピートするにはなかなかしんどそうですが、たまに観ると観劇後にくたびれながらも心が引き締まる気持ちになりますので、あくまで「たまに」なら、こういう演目も良いかも、と思っているところです。

*1:ちなみに下ネタのほか、女性のトップレスシーンも複数あり。

『レディ・ベス』帝劇千穐楽感想(2017.11.18マチネ)

キャスト:レディ・ベス=平野綾 ロビン・ブレイク=加藤和樹 メアリー・チューダー=吉沢梨絵 フェリペ=古川雄大 アン・ブーリン和音美桜 シモン・ルナール=吉野圭吾 ガーディナー石川禅 キャット・アシュリー=涼風真世 ロジャー・アスカム=山口祐一郎 リトル・ベス=斉藤栄万 リトル・メアリー=石倉雫

『レディ・ベス』帝劇千穐楽を観てまいりました。
……が! 足腰の痛みが未だに良くならず、前夜も眠りが浅かったため観劇中は睡魔と戦い、しかも痛み止めが上手く効いてくれない上に、休憩時間の化粧室待機列で脚の痛みが悪化し……ということであまり舞台に集中できず。
以下はその状況下でもなおかつ記憶に留まってくれた感想です。
ほぼTwitterに書いたことと被っています。すみません。

まず、何と言ってもアスカム先生。
何だか全体的にベスへの向き合い方がお父さんモードになっていました。以前はもっと、自分が見込んだ教え子に期待する気持ちの強い先生でしたが、いつのまにか、台詞や表情はもちろん、歌い方までが慈父のそれに変化していて驚かされました。
特に「王国が現れる」。私もあの温かい笑顔と絶妙な間合いで激励されたい、と真剣に思いました。相手の平野ベスの表情が曲の間に本当に「ぱあっ」と音がしてきそうに輝いていくので尚更に。

それから、和音アン。
1幕での登場時から抜群に良くなっている! と感じました。ベスに向けて私の生きた証は貴女だ、と歌い上げる時に母親としての情念が濃く浮かび上がっていたと思います。
初演で観た時の和音アンは常に霊体な佇まい、と申しますかどこか人間でない雰囲気を保っているイメージがありましたが、再演では端々に人間、そして母親としての情をにじませる役作りが伝わってきて、観ている側としても感情を入れやすかったです。

そんなアンとアスカム先生のデュエット「愛のため全て」はこの上なく情愛に満ちていました。今まで何度も聴いた歌なのに今回とりわけ心に響いて染み渡ったのは、現在自分の心身が弱っているからかも? と最初は思っていました。しかし、他の方のツイートを拝読した限り、山口さん、そして恐らく和音さんも、帝劇公演の期間中に役作りの味付けを少しずつ変えてきて、この楽日の表現に至ったのだと、今は確信しています。

改めて振り返ってみても、当日はどうにも集中力に欠けていたようで、あとは箇条書きのみの感想となります。
「ルナール閣下、一挙一動がいちいち格好いい! しかし自滅する大司教猊下を足蹴にするさままで格好よく見えるのは困ったもんだ」
「平野ベス、こんなに頼り甲斐のあるヒロインになるとは初演時には想像してなかったな。和樹ロビンの成長もまた然り」
「吉沢メアリー、最初から最後までひたすら哀れすぎて辛い」
……何だかボキャブラリー貧困で申し訳ございません(>_<)。

そんな中で、カテコの山口さんのご挨拶がとにかく可愛くて癒されて、その辺のしんどさが全部吹っ飛びました。
詳しくは千穐楽カテコ映像を見ていただきたいと思いますが、ロビン×ベスの「幸せ♪」を袖からお父さんモードでちらちら覗いているお姿を想像するだけでこちらが「幸せ♪」になります。
ついでに挨拶をさっさと終えようとして横から最高の教え子にアニメ声で「もう一声」という感じで突っ込まれるアスカム先生や、キャットさんの可愛らしさにほくほくするアスカム先生にもなごみます。心がささくれ立った時にはおすすめです(^_^)。

それにしても、良い舞台を堪能するには健康な身体が欠かせないと痛感しています。好きで身体を壊しているわけではありませんが、少しでも健康に近づければ良いなあ、と思っているところです。

『レディ・ベス』感想(2017.10.28ソワレ)

キャスト:
レディ・ベス=平野綾 ロビン・ブレイク=加藤和樹 メアリー・チューダー=未来優希 フェリペ=古川雄大 アン・ブーリン和音美桜 シモン・ルナール=吉野圭吾 ガーディナー石川禅 キャット・アシュリー=涼風真世 ロジャー・アスカム=山口祐一郎 リトル・ベス=山田樺音 リトル・メアリー=石倉雫

『レディ・ベス』の今季上演3回目の観劇でした。初・平野ベスです。
実は今、ちょうど長引くひどい腰痛と脚の痛みに悩まされておりまして、痛み止めを飲み湿布をしこたま貼っての帝劇行きと相成りましたが、今回はそこまでしても「観て良かった」と思える舞台でした。

平野ベス、少女から大人の女性、手厚い庇護を受ける王女から国を背負って生きる女王への変化が大変に分かりやすいベスでした。和樹ロビンとの相性も良いように思います。

花總ベスの場合は何をしていても囚人の立場になっても全身から「生まれながらの女王」なオーラが漂っています。大変大雑把に例えて言うなら、旧演出レミゼで山口バルジャンがどんなに汚れようが苦悩しようが、無意識のうちに白い光に導かれて首尾一貫して神の道を歩んでいたようなものだと思います。
ところが平野ベスの場合は「人は女王に生まれるのではなく、女王になるのだ」という感じでした。善き大人達の愛情に包まれ知恵を育みつつも母への呪いに囚われていた少女が、死を覚悟したことにより母を理解し、更にただ心のままに恋愛に落ちるという経験を経る間に、本当ぐんぐん声や話し方も表情も変化していき、終盤で女王として生きる決意を恋人に告げる時には凛とした女王の居住まいになっています。
初演の時は、ああ、歌を頑張ったねえ、とは思いましたが役作りがここまで徹底していたという印象はなかったので、正直驚かされました。成長する若さって素晴らしい、と感じ入った次第です。
花總ベスと平野ベスについては「どちらが良い」という話ではなく「どちらも良い」です。それぞれの魅力があって、甲乙つけがたいところがあります。

未来メアリーは、たぶん今季お目にかかるのは今回で最後です。やっぱりネガティブ系の吉沢メアリーとは対照的に、ポジティブ系ですね。といっても決して明るいわけではなく、攻撃し前進することで自らの孤独を見なかったことにしようとする屈折の感じられる女王であると思いました。
ちなみに今回、メアリーのコミカルな演出も大幅に減らされて悲劇性がやや強調されているわけですが、その割に「想像!」で締めくくるあの曲が残っているのは謎です。あのシニカルな笑いで片付けようとして全く笑えない曲の後に、メアリーとベスの寂しすぎる対面に進むのは、結構いたたまれないものがあります。

ロビンとフェリペは前回と同キャストなので感想は省略します。
古川フェリペについては、1幕に吉野ルナールとの共演がありますが、来年の『モーツァルト!』でもこの2人の共演をちょっと見てみたかったな、惜しかったな、と少しだけ思いました。

ここで、今季のアスカム先生についてぜひ語っておきたいことがあります。
とにかくプロローグのラピスラズリのような星空を背景に、降り注ぐ無数の光の下に静々とアスカム先生が現れる、あの場面が美しくていつも見入ってしまうのです。……と、初日からずっと言いたくて書き損ねていましたが、やっと言えました!

また、2幕でアスカム先生が「ベスは必ず帰ってくる!」と思いを込めて自分に言い聞かせるように独白する場面があります。
史実のアスカム先生に関しては、「9日間の女王」ジェーン・グレイとも関わりがあり、彼女と対話した際にその聡明さに感心したという話があるらしいです。
『レディ・ベス』の物語に全くジェーンの影が見られないのは不自然な気もしますが、一方でベスの受難にジェーンのイメージも託しているような感じも見受けられます。
この作品の世界はもしかしたら「ジェーンの存在しない世界」なのかも知れません。しかし、もし彼女が存在した世界であるとすれば、
「ベスの才能こそは決して失われてはならぬ、 必ず生還して、彼女の星の運命である玉座に着くのだ」
というアスカム先生の思いもひとしお強いものであったのではないか? と、想像にふけりながら、先生の深い眼差しと切なくも真摯で愛情に満ちた歌声に浸っていました。

そういえば今更ですが、ちょっとした疑問があります。
2幕のアスカム先生とアンのデュエット「愛のため全て」で、アスカム先生がベスを「父上の娘」と呼んでいます。
他の曲や地の台詞では、アスカム先生の台詞も含めて、血筋より本人の能力や生き方が大事、という変更が結構なされているのに、この曲だけ唐突に「父上の娘」と出てくるのはやや不思議に思いました。
ただ、アンが途中でベスに、父上のことには拘らず貴女は貴女で良い、と諭す一方で、エピローグでは「獅子と呼ばれた」父上の強さを娘の貴女が受け継ぐ、と祝福の言葉を歌ってもいて、ああ、どちらも親の本音なんだねえ、と考えさせられたりもしたので、アスカム先生も心のどこかで偉大な父上と教え子を重ね合わせていたのかも知れないね、と思ってもいます。

『レディ・ベス』は実際のところ物語として好みか? と改めて問われると決してそうとは言えない点がいっぱいありますが、曲には「王国が現れる」や「大人になるまでに」など、いくつかメロディが好きな曲があります。そんなわけで、来年(2018年)5月に発売されるというDVDは、割といそいそと2枚セットで劇場にて予約いたしました(^_^)。まだ半年以上も先になりますが、楽しみにしています。

次回観劇は、少し間が空いて、帝劇千穐楽になる予定です。それまでには腰痛が少しでも緩和されていることを願っております。

『レディ・ベス』感想(2017.10.15マチネ)

キャスト:
レディ・ベス=花總まり ロビン・ブレイク=加藤和樹 メアリー・チューダー=吉沢梨絵 フェリペ=古川雄大 アン・ブーリン和音美桜 シモン・ルナール=吉野圭吾 ガーディナー石川禅 キャット・アシュリー=涼風真世 ロジャー・アスカム=山口祐一郎 リトル・ベス=斉藤栄万 リトル・メアリー=石倉雫

今季2度目の『レディ・ベス』観劇でした。しかも座席は今季唯一の最前列!
ただ今回は観劇前に腰痛が悪化したり(医師の診察を受け少しずつ回復傾向です)、もしかしたら劇場でお会いできるかも知れなかった方とすれ違ってしまったり、観劇前に即日修理を期して修理窓口に持ち込んだ愛用のPCの修理が、思った以上に故障が重症だったために完了せずお預けになってしまったりと、自分としてはかなり残念な1日になってしまいましたが、観劇そのものは割と充実感があったと思います。

今回はロビン、メアリー、フェリペが初日とは別キャストで、子役も2人とも別キャストでした。そして花總ベスは今季見納めの予定です。

まず、和樹ロビンは育三郎ロビンよりも少し大人で包容力のある雰囲気に感じられました。私的にはこちらのロビンの方がしっくり来るようです。

初日の感想にも書いたとおり前回ロビンを観た時には、
「ロビン、お前さん、何故自分の思いだけで民衆の希望の星を落とそうとするんだい?」
と疑問にしか思えなかったのですが、今回は全く異なり、
「ロビン、これから星の定めに従って険しい道を歩む姫君に、肉体や身分に縛られぬ『魂の自由』の素晴らしさを教えてくれてありがとう」
と、まるで自分がアスカム先生に成り代わったかのような気持ちで素直に好印象を抱き、彼の涙に共感を覚えました。
また花總ベスについても2幕の半ば辺りから、
「この子がロビンに惹かれるのは、自らの魂を解放してくれるかも知れない存在だからではないか?」
と思わせてくれる空気を全身に漂わせていたと思います。
初演のベスとロビンのように、他の誰とも決して恋も結婚もしない、と相手を縛り合う関係ではなく、どんなに離れて手の届かない場所にいても魂が自由なら同じ空の下でいつでも一緒だ、と言い切れる関係に再演では変化したのだ、と、今回の和樹ロビンと花總ベスを観て遅ればせながらようやく理解できたような気がします。

なお「手の届かない」から連想したわけではありませんが、和樹ロビンが花總ベスの所に夜這い、失礼、軟禁先に潜入しようとする場面の「とーどーかなーいー」でつい、
「いや、君の体格ならもっと高い位置でそのターザンロープ使えば、余裕でベランダに届くだろう」
と思った瞬間、ぷぷぷと吹いてしまいました。お二方からは見えなかったと思いますが、ごめんなさい。

話は変わりまして、今季初鑑賞キャストの2人目、吉沢メアリーについてです。
何とも寂寥感漂う女王だと思いました。亡き母の信じていたものを忠実に守り母に報いるために手を汚すことも厭わない孤独な生き方はWキャストのメアリー2人とも共通なのですが、未来メアリーが「動」で「攻め手」ならば吉沢メアリーには「静」で「受け身」、そして必死感の強さが感じられました。フェリペとの結婚はもちろん政略結婚ではありましたが、それ以上に自らの縁者であるスペインとの繋がりを何としても失いたくなかったのではないでしょうか。荒涼とした哀しみを湛えたメアリーなのです。

それから、古川フェリペ。もちろん見目麗しいですが、とりわけ目力が密かに素敵なフェリペです。自由意思が許されず、いつでも国家の手駒として動くことが求められる立場である王族としての諦観の念と、そのような立場だからこそやるべきことはきっちりやらせていただくぜ、な割り切った感情とが同時にあの目力に込められていたように見えました。以前よりすっかり立ち姿に余裕が出て頼もしい感じがするのは、来年Wキャストではありますがついに帝劇での主演を射止めたなどの自信からでしょうか?

今回の「ネタ」としては、フェリペとメアリーの結婚式での聖書(禁書。ベスを罪人扱いするための唯一の物的証拠)を巡る攻防戦で、聖書がオケピに転落していました。私の目にはオケピにストレートに落ちていったように見えましたが、オケピ上部に張ってあるネットに引っかかったという話もあるようです。あの聖書にスペアがあるかは定かではありませんが、あの後聖書を使う場面がなくて良かったね、と思いつつ見守っておりました。

アスカム先生に関しては、前回ほどベスへの信頼に恐ろしさは覚えませんでした。逆に今回は、ベスに向ける信頼厚い眼差し、そしてベスが王位を選んだ後にロビンにかける言葉の暖かさがたまらなく心に染みて、涙が出そうになり、まさに今のような季節、時々冷たい風の吹く秋の空の下、力強く優しい歌声が包み込んでくれるような感覚を覚えました。
そういえばこれはどなたかがツイートされていてようやく把握したのですが、「王国が現れる」の前にアスカム先生が貴女はお父上にないものを持っている、それは……とベスに語りかける場面で、初演では「それは、愛だ」と言っていた台詞が「それは、世界を変える力だ」に変わっていました。この変更により、アスカム先生が愛弟子に対し抱いている期待の像がよりはっきりと浮き彫りになったように思います。
なお、初演と再演の台詞や演出の違いについては、当方が初日に気づいた分と上記のアスカム先生の台詞のほかにも、まだまだ存在しているようです。例えば、初演にはベスが戴冠式で誓いを立てる台詞(歌)があったのが無くなったなど。私自身はそう言われてみれば! という感じで、初演への愛が足りなかったことがばれてしまいました(^_^;)。

次回は少し間が空いて、10月28日ソワレを観劇の予定です。今季初めて平野ベスが見られるのを楽しみにしています。

『レディ・ベス』初日感想(2017.10.8ソワレ)(その2)

初日、新演出の感想についてはこちら→『レディ・ベス』初日感想(2017.10.8ソワレ)(その1) - 日々記 観劇別館

書きそびれているうちに次の観劇日が巡ってきそうなので、個々のキャストの感想だけでも簡単に記しておきます。

花總ベス。その1にも書きましたが、女王姿がフィットし過ぎるくらいはまっています。はまり過ぎていて、逆に彼女が一時的に恋愛や心身の自由に心を寄せたとしてもそれは仮初めに過ぎず、女王となることが宿命づけられているようにしか見えません。
育三郎ロビン。何でしょうね、彼の奇妙な安定感は。そしてどう考えても流れ者になる前に結構苦労している筈なのに、流れ者生活が心から楽しそうなのであまりそう見えないのが凄いです。あと初演の時は育三郎ロビンがベスを子供の世界に留めようとするピーター・パンのように見えて、今回もそういう所はあるのですが、今回の育三郎ロビンはもう少し達観しているように見受けられます。
平方フェリペ。初演よりも色気が倍増したように見えたのは気のせいだけではないと思います。再演ではフェリペの出番が減らされてしまいましたが、この色っぽい平方フェリペが最後にベスに軽く誘いを掛ける場面などを観たかった気がします。
なお、チケ取りでキャスト組み合わせを上手く配分できず、育三郎ロビンと平方フェリペを観るのは今回のみなのです。残念。

ガーディナー猊下。禅さんのメイクが濃過ぎてビビりました(^_^;)。なんだか最初から顔色が悪く苦そうな薬を飲んでいて、猊下、ベスを消す計画に加担していなくても早晩寿命が来ていたんじゃないかと思われます。初演ではお稚児さん趣味を臭わせていてルナールに迫るような仕草がありましたが、今回はその辺の設定はカットされたようです。
吉野ルナール。とにかく格好いい! そして鬼畜。ルナールに関しては初演からの大きい変化はなさそうでした。時々見せてくれるバトントワリングがツボです。
未来メアリー女王陛下。メアリーについては事前の小池先生インタビューでも語られていたとおり、コミカル要素はぐっと減って「悲劇の女王」の面が強調された演出に変更されています。ただ未来メアリーの場合、実母の雪辱を果たすためなら自分はどうなろうと構わない、という意思の表現がポジティブなので、最後のベスへの独白に至ってもあまりお涙頂戴には流れていない感じでした。
和音アン。実は初演の時は若干得体の知れない不気味さを覚える時もありましたが、今回はそうでもなく。ベスの中の何かを無条件に信じる人、という意味でアスカム先生と表裏一体の存在として描くことに今回は成功していると思います。
なお、アンは途中まではベスの中に首切り役と1セットでインプットされてしまっているようですが、最後には恐らく分離されたと思われます。めでたし。
涼風キャット。プロローグの説明場面(ここちょっと紙芝居っぽい(^_^;))に出番が追加されていて、ベスが本当に小さい頃から一緒にいたことが分かるようになっていました。
「大人になるまでに」の凛とした歌声と立ち居振る舞いも健在。アンやアスカム先生よりもっと穏やかではありますが、ベスを信じ無償の愛で支え続けるキャットの生き方が体現されているナンバーです。

そして、山口アスカム先生。星々に保証されたベスの王の器への強い信頼は3年半前から一貫していますが、ベスに対する姿勢がやや変化したように感じられました。
具体的には、初演ではどこかに、
「信じていますから、ゆめゆめ道を踏み誤らないでくださいね。間違えたら先生悲しいですよ」
な空気が漂っていましたが、今回は、
「まあ、我がベス様なら必ず賢明な判断をされるでしょうから、ご自身の言葉できちんと彼にお話ししてくださいね」
という感じの、有無を言わせぬ絶大な信頼感が伝わってきました。それでも決して強制的、圧力的な雰囲気をまとうことはなく、歌声も台詞回しもどこまでも紳士的で暖かさすら湛えているのが山口アスカム先生の恐ろしい所です。
そのダンディーで知の宇宙を無限に内包していそうなアスカム先生が、カーテンコールでは満面のほんわか爽やか笑顔で舞台に現れるのがまた何とも言えず。あ、これは本編と関係ないですね。

最後に、メインキャスト以外で気になるのはやはり中山昇さんのワイアットでしょうか。出番はさほど多くないのにさすがの強烈な印象を残してくれています。
ただ彼の志を踏みにじられるむごさは伝わってくるのですが、その他の民衆の皆様の怒りや祈りにベス自身が直接触れる機会は実は1幕の居酒屋の場面しかないので、ええと、ベスの選択に彼らの思いは反映されてるのかなどうなのかな? とちょっともやもやしないでもないです。
あと、ロビンは最初のプロテスタント信者の検挙や居酒屋、ベスのウッドストック移送の場面で民の声をたくさん耳にして共感もしている筈なのに、いくら恋愛感情を抱いたとは言え何故あえて彼らの期待の星ベスを連れ出そうとするのかと、そこはずっと心に引っかかっています。もちろん、王冠を頂くのはとても重大で過酷なことだし、期待が大きければ失敗した時の失望も大きいだろうから、そんな大変な目に愛する人を遭わせたくない、というのは分かるのですが。そこは自分がロビンにあまり共感できない所なのです。

小池先生にリーヴァイさんに、と盛りだくさんだったカーテンコールのことなども書きたい所ですが、感想その2はこれくらいにしておきます。

『レディ・ベス』初日感想(2017.10.8ソワレ)(その1)

キャスト:
レディ・ベス=花總まり ロビン・ブレイク=山崎育三郎 メアリー・チューダー=未来優希 フェリペ=平方元基 アン・ブーリン和音美桜 シモン・ルナール=吉野圭吾 ガーディナー石川禅 キャット・アシュリー=涼風真世 ロジャー・アスカム=山口祐一郎 リトル・ベス=山田樺音 リトル・メアリー=桑原愛佳

帝劇にて『レディ・ベス』再演初日を観てまいりました。
新演出版と聞いていましたが、実際初演からは修正や差し替え、カットされた箇所が結構ありました。以下、気づいた変更点の一部です。と言っても何せ初演を観たのが3年半も前につき記憶も曖昧な所があるので見落としもあるかも知れませんが。

  • プロローグのメアリーとベスの生い立ちと確執の経緯の説明場面に子役が登場。ヘンリー8世、キャサリン(メアリー母)、アン(ベス母)も登場。
  • あれ? 樽隠しに失敗している? で、別の時に成功?
  • 「王国が現れる」の前にベスが宮殿で辱めを受け憔悴して帰宅したことをキャットがアスカム先生に伝える台詞が追加。このほかにも場面ごとに状況を説明し次の場面に繋ぐ台詞が随所に追加。
  • フェリペの出番が大幅にカット。ベスに手を出すのはロビンの存在を知った時点で諦めてる感じ? そしてナレ死……じゃなくてナレ退場。
  • 「神よ祝福を与えん」の歌詞が変えられてる?(確証なし) 初演では民衆が田舎に移送されるベスを見て「父上に似て高貴な居住まい」と讃える歌詞があったのがなくなり、今回は違う歌詞になっていたように聴こえましたが、さて?
  • 最後の姉妹の対面でヘンリー8世の帽子を被ったベスにメアリーが父上の面影を見て驚く場面がカット。
  • ベスとロビンのデュエットがまるっと新曲に差し替え。「もう誰とも結婚しない」じゃなくなった!
  • ベスのソロ新曲が追加。

上に書いたうち、下から3番目と4番目についてはもし聞き違いでなければ、田舎で幽閉され屈辱を受けて「父上ならこんな時もきっと立派に振る舞うだろうに……」と嘆くベスにアンが「父上のことは気にせず、あなたはあなたの生きたいように生きれば良いのよ」とフォローする場面とも繋がると思うのですが、さて、これで聞き違いだったらどうしましょうか(^_^;)。

全体の印象としては、説明的な台詞や場面が増えたことで初見の観客にもぐっと話が分かりやすくなったと思います。ただ、私自身はポジティブに受け止めていますが、「一つ一つ説明って、客をバカにしとんのか、われぇ!」という批判の声があるのもまあ分かります。

ごく個人的趣味としては、これは初演の時も感じたことですが、もう少し作品全体を貫くうねりのようなものも欲しいな、とつい考えてしまうのです。
今回、アンがより一層ベスの内面との一体感を強めた存在として描かれており、また、アスカム先生の、王の資質を存分に兼ね備えた賢い王女ベスへの期待と信頼が初演よりも強調された演出になっていて、その2人が歌う「愛のため全て」はベスの内面の葛藤を如実に示した佳曲であると思います。いかにも、平凡な女性としての幸せな恋愛と王冠を頂くであろう者の他者を幸福に導く義務との間で葛藤した主人公が目覚めて立ち上がることを期待させるような。
しかし、いかんせん肝心のベスの視線が「愛を取るか王の義務か?」に専ら向けられていて、王が見るべき国家や国民にあまり向けられていないので、その点でこの物語に肩透かし感があるのは否めません。

ただそれでも、相手役のロビンとの関係について、最後に「2人は離れても同じ空の下でいつまでも一緒だ」と初演よりはぐっと前向きになってくれたのは良いことだと思います。
そして、何と言っても、王冠を頂いた花總ベスの女王オーラには上記のような細かいツッコミを一撃のもとに吹き飛ばす説得力があります。初演の時にも、
「花總ベスは恋愛モードは一瞬の血迷いに過ぎず、あくまで女王モードが本来の姿だ」
という雰囲気を醸し出していましたが、再演までの3年半で女王モードが強化されたように感じられます。
今のところ花總ベスがはまり過ぎていて、もう1人の平野ベスのイメージがあまり想像できず困っているところです。

というわけで長くなりましたので、キャストの感想は「その2」に続きます。

映画『この世界の片隅に』感想(2017.8.25鑑賞)

もう先週金曜日の話になりますが、ようやくアニメーション映画『この世界の片隅に』を鑑賞してきましたので感想を記しておきます。
2回目を観ない限りは消化しきれない所もたくさんありますが、初見でしか書けない感想ということでご容赦ください。

初っ端の第一印象としては、「すず」さんを演じたのんさん(本名:能年玲奈さん)の声の、あの絵柄の世界にしっくりはまる感じと存在感に驚かされました。どこか、あの大竹しのぶさんに通じる雰囲気があると思います。

序盤のすずさんの幼年時代のシーンが、あえてそういう描写になっているらしいですが大変に虚実あいまいで、そんな場面が旦那さんとの邂逅という重要なポイントになっているのは面白いと思ったりもしました。

この世界の片隅に』は、1人の絵を描くことが上手な若妻の戦争に翻弄された人生を描いた、第二次世界大戦前から戦中、戦後間もなくにかけての物語です。

この映画は反戦映画と思うか? と問われても、実は良く分からないです。
ただ、災厄や死というものは何人に対しても、平和な世においても平等そして理不尽に訪れますが、戦争というのはその「理不尽」がとりわけ残念な形で、しかもよりたくさんの、幅広い立場や年齢の人々に一度に降り注ぐ、人間が引き起こす事象の中でも最悪の部類に属するものであることには違いないので、できるだけ発生が回避されるべき事象であると、すずさんや、晴美ちゃんを初めとする周囲の人々の受難を見て改めて思ったのは確かです。

すずさんのように少女から抜け出したばかりの素直で純粋で健気で忍耐強く、その上一見地味に見えて実は豊かな芸術的感性を持った瑞々しい女性だからこそ、彼女が次々に大事なものを奪われていく姿はより痛々しいものがあります。しかし、彼女以外の人々も、人生の大事なものを奪われたり壊されたりしたのだということを、これでもかと丹念にリアルかつ細密に描写された、戦前の広島や呉の街の姿が物語っていたと思います。
映画を見たお年寄りの方達が、確かにあの時代のあの風景の中に家族や自分がいた、と語ったそうですが、まさに人間の埋もれた記憶を呼び起こす、素晴らしい情景でした。

この世界の片隅のどこかで、1人1人異なる人生を送る人がいて、1人1人違う形で生を終えています。誰かの死は覚悟の上のものかも知れませんし、別の誰かの死は全く理不尽で望まぬ形で訪れたものかも知れません。あるいは生まれたことそのものを理不尽と感じている人もいることでしょう。
しかし、誰のどのような人生であろうと、本当は少なくとも自分自身にとっては愛おしいものであってほしい。万人において人生がそのようなものであることは、まずあり得ないのだと知りながらも、この映画を見た後ではそう思わずにはいられません。

すずさんの失われた右手―かけがえのない自らの重要なアイデンティティでもあり、光り輝く胸を締め付けられるように懐かしい日々の象徴でもあります―は二度と還ることはありませんが、それでも世界の片隅で彼女の人生は続いて行きます。

右手を失ったことは理不尽な災難以外の何ものでもありませんが、皮肉にも恐らく、もし右手を失っていなければ、彼女は終盤に大切なものとの巡り逢いを経験することはなかったか、もう少し出逢いが遅れていたかも知れません。
こういうのは何と言えば良いのでしょうか? 「理不尽な巡り合わせが出会わせたささやかな幸福」とでも呼ぶべきでしょうか? 全くもって人生とは理不尽で不思議なものだと深く息をつくばかりです。